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堀川波鼓

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堀川波鼓(ほりかわなみのつづみ)は、近松門左衛門作の浄瑠璃[1]。3段の世話物[1]。初演座は大坂竹本座[1]、初演年は宝永3年(1706年)後半頃[2]あるいは宝永4年(1707年)2月[3]など諸説ある[注 1]

概要

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鳥取藩士が京都で妻敵(女敵、めがたき)[注 2]を討った事件を脚色したもので[1]、『大経師昔暦』『鑓の権三重帷子』とともに、近松三大姦通物の一つ[1]。姦通物としては近松が初めて手掛けた作品である[7]。初演以来、再演の記録がなかったが、1964年に復活公演が行われた[4]。これを映画化したものに『夜の鼓』(今井正監督)があり[8]、新劇では俳優座が『つづみの女』(田中澄江脚本)として上演した[9]

解説

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事件を伝える『月堂見聞集』(巻之二)によれば、鳥取藩の台所役人・大蔵彦八郎が、江戸から帰藩後、留守中の密通を白状した女房たねを刺殺し、密通の相手を見知る妹くら(28歳)と、たねの妹ふう(27歳)を伴って上京、宝永3年6月7日午前8時過ぎ、下立売通堀川東入で宮井伝右衛門(31歳)を討ち取ったという[10]

この事件を脚色した浮世草子に『京縫鎖帷子』(森本東烏、宝永3年仲秋刊)と『熊谷女編笠』(錦文流、宝永3年9月刊)があり、近松は前者の影響を受けた[11]とされる。

物語は在原行平の故事[12]を冒頭に引用するなど、上の巻において、謡曲『松風』をもじった箇所が多い[13]。上述した『熊谷女編笠』が、皷の師匠登場の場面で同じく『松風』を演奏させており[14]、近松はこのほか、作中の人物名や印象的な一部の文章などで『熊谷女編笠』を参考にした痕跡がある[15]とも指摘されている。

あらすじ

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(上の巻)鳥取藩の下級武士小倉彦九郎の妻たねは、夫が江戸勤番で留守の間、満たされない淋しい日々を送っていた。その日、たねは実家の成山家で妹のふぢと洗濯や張り物に精を出していた。奥では養子の文六がの稽古中である。その謡曲『松風』の文句につられて、たねは夫恋しやの思いを募らせる。稽古の後、京の鼓の師匠宮地源右衛門と初めて対面したたね姉妹は、源右衛門に酒肴をふるまい、たねが進んでその相手をした。ふぢ・文六が引き揚げた夕方、庭の潜り戸から侵入した夫の同僚磯辺床右衛門に横恋慕を仕掛けられたたねは、啖呵を切ってこれを断った。すると「心中する覚悟で来た」と刀を抜いて脅されたため、咄嗟に「明日の夜、私の家で…」と偽りの甘言でたぶらかしたところ、その一部始終を、別室にいた源右衛門に聞かれてしまう。たねは「口止めの盃」を源右衛門とつけざしで取り交わすと、やがて二人は酔態から情事に及び、しかも、その夜の密通の証拠を、再び家に押入ってきた床右衛門に握られてしまう[16][17]
(中の巻)五月。参勤交代の御供として彦九郎が一年ぶりに江戸から戻ったその日、藩内では“たね密通”の噂が広まっていた。ふぢは一計を案じ、姉と離縁して自分と一緒になるよう彦九郎に迫るも、事情を知らない彦九郎には通じない。これに逆上したたねはふぢを罵り打擲するが、ふぢから密通と妊娠四か月の事実を問いただされて絶句する。そして、すべては「姉の命を助けたいがため」というふぢの真情を理解したたねは、自らの酔態を悔やみ、姉妹で抱き合い泣き伏す。そこへ、彦九郎の妹ゆらが血相を変えて現れ、門外で兄と口論をはじめる。ゆらは、藩内が密通の評判で持ちきりであること、「姦夫も討てない腰抜け侍の妹とは一緒に暮らせない」として、江戸から戻った夫・政山三五平に今しがた離縁されたこと、「兄彦九郎が妻敵討ちを果たしたなら復縁しよう」と夫に告げられたことを述べて兄に詰め寄る。これに対し、彦九郎が密通の証拠を問うと、ゆらは磯辺床右衛門から夫に注進があったという当夜の物証を兄の前に投げ出した。ここでいよいよたねに詮議が及び、下女の口からは堕胎薬を買いに行かされた事実まで明かされる。彦九郎に促されて仏間に入ったたねは、自ら覚悟を決め、涙を拭って夫の情に感謝し、夫を袖にしての不義ではなかったことを明言する。その上で「これが自らのけじめ」と胸元を押し開き、すでに肝を貫く短刀をあらわにすると、最期は夫の介錯で静かに果てた。彦九郎はたねの妻敵を討つべく、再び旅装束に身を包むと、泣いて同行を願い出た文六・ふぢ・ゆらを伴い、姦夫の住む京都へと出立する[18][19]
(下の巻)祇園会で賑わう六月七日、彦九郎ら四人は堀川下立売の宮地源右衛門宅へ二手に分かれて討ち入り、二階から逃げ出した源右衛門を追い詰めた末、群衆が見守るなか、堀川の橋の上で本懐を遂げる[20][21]

脚注

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注釈

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  1. ^ 精選版日本国語大辞典「1706年頃」、デジタル大辞泉・大辞林第3版「1707年」、世界大百科事典第2版・日本大百科全書(ニッポニカ)「1711年正月以前」[1]、文化デジタルライブラリー「1706年6月以降~1707年2月15日以前(推定)」[4]
  2. ^ 自分の妻と姦通した男[5]。当時、姦通は死罪とされ、妻敵討ちは天下公認の合法的私刑であった。なお、密通を仲介した者も死罪とされ、また、主人の妻に対して密通を申しかけたり、艶書を遣わした使用人や部下も、死罪あるいは追放と定められていた[6]

出典

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  1. ^ a b c d e f 堀川波鼓とは”. コトバンク. 朝日新聞社・VOYAGE MARKETING. 2020年9月28日閲覧。
  2. ^ 鳥越文蔵ほか 1997, p. 641.
  3. ^ 鳥越文蔵ほか 1997, pp. 486、663.
  4. ^ a b 近松作品辞典>世話物一覧”. 文化デジタルライブラリー. 日本芸術文化振興会. 2020年9月28日閲覧。
  5. ^ 鳥飼文蔵ほか 1997, p. 511.
  6. ^ 岩橋邦枝 1990, p. 62.
  7. ^ 岩橋邦枝 1990, p. 154.
  8. ^ 作品紹介>夜の鼓”. 映連データベース. 日本映画製作者連盟. 2020年9月28日閲覧。
  9. ^ 平敷尚子「田中澄江「つづみの女」論 : ――家父長制からの脱却と個の模索――」『演劇学論集 日本演劇学会紀要』第43巻、日本演劇学会、2005年、193-207頁、doi:10.18935/jjstr.43.0_193ISSN 1348-2815NAID 130007530842 
  10. ^ 鳥越文蔵ほか 1997, p. 663.
  11. ^ 鳥越文蔵ほか 1997, p. 664.
  12. ^ 山田美妙評注『日本浄瑠璃叢書 : 評注近松著作集 巻1』文修書房、1897年、162頁。
  13. ^ 坪内逍遥綱島梁川編『近松の研究』春陽堂、1900年、58、85頁。
  14. ^ 坪内逍遥・綱島梁川編『近松の研究』春陽堂、1900年、57、58頁。
  15. ^ 水谷不倒校訂註釈『近松傑作全集 : 新釈插画 第4巻』早稲田大学出版部、1910年、2、3頁。
  16. ^ 岩橋邦枝 1990, pp. 158–173.
  17. ^ 鳥越文蔵ほか 1997, pp. 487–502.
  18. ^ 岩橋邦枝 1990, pp. 184–192.
  19. ^ 鳥越文蔵ほか 1997, pp. 502–516.
  20. ^ 岩橋邦枝 1990, pp. 193–197.
  21. ^ 鳥越文蔵ほか 1997, pp. 516–528.

参考文献

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関連項目

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  • 夜の鼓 - 同作をモチーフとする1958年の日本映画