半井成信
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(半井瑞桂から転送)
時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
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生誕 | 天文14年(1545年) [注釈 1] |
死没 | 寛永16年4月11日(1639年5月13日) [1][2] |
別名 | 三善丸(幼名)[2]、驢庵(剃髪号)[3]、瑞桂[3]、任世翁[3]、通仙院[3] |
戒名 | 通仙院昌室瑞桂大居士[2] |
墓所 | 大徳寺真珠庵[2] |
官位 | 従五位上 宮内大輔[3][注釈 2] |
氏族 | 半井家 |
父母 | 父:半井光成(瑞策・2代驢庵)[4] |
子 | 利親(瑞玄)、瑞沢、宗閑、琢庵、瑞益(久庵) [3] |
半井 成信(なからい なりのぶ[3])は、安土桃山時代後期から江戸時代初期の医師。号は瑞桂・驢庵(3代)。父の半井瑞策(2代驢庵)と同じ通仙院の院号を称した。徳川家康らの侍医を務めた。
生涯
[編集]半井光成(瑞策・2代驢庵)の子として生まれる[3]。幼少時には相国寺の惟高妙安のもとに入室している[3]。
駿府で徳川家康に仕え、薬を調進する[3]。のちには江戸に赴き、徳川秀忠にも薬を調進した[3]。
寛永元年(1624年)、半井家の先例により、法印に叙されずに「通仙院」の院号を称し[3]、勅命によって深黒の素絹の着用を許された[3][注釈 3]。このとき「驢庵」の号は嫡孫の半井成近に譲っている[3]。
成信の没年については以下のように諸説がある。
- 『寛政重修諸家譜』(以下『寛政譜』)では、寛永15年(1638年)4月11日没とする[3]
- 『寛政譜』編纂時の呈譜には寛永11年(1634年)4月11日に京都において没、享年95とあったという[3]。
- 大徳寺真珠庵の墓石銘によれば、寛永16年(1639年)4月11日没[1][2]。享年95という[2]。
『寛政譜』の半井成近の項目では、慶長16年(1639年)6月15日に祖父の遺領である山城国愛宕郡内500石[注釈 4]を継いだと記されている[3]。
家族
[編集]『寛政重修諸家譜』は5男5女を載せる(女子については存在が示されるのみ)。5人の男子は以下の通り。
- 長男:半井利親(瑞玄)
- 二男:半井瑞沢(蛛庵) - 法印に叙される
- 三男:半井宗閑
- 四男:半井琢庵
- 五男:半井瑞益(久庵)
長男の半井利親(瑞玄)は従五位下典薬頭・右衛門佐に叙されたが[3]、慶長8年(1603年)に25歳で没し、父に先立った[3]。このため、利親の子である半井成近(瑞寿・4代驢庵)が嫡孫とし家を継ぐこととなった[3]。なお、利親は藤堂高虎の娘を娶っており、成近は高虎の外孫となる[3]。
備考
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b “大日本近世史料 細川家史料 二十五”. 東京大学史料編纂所. 2023年8月9日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i 石野瑛 1937b, p. 326.
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 『寛政重修諸家譜』巻第六百七十九「半井」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.611。
- ^ 『寛政重修諸家譜』巻第六百七十九「半井」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』pp.610-611。
- ^ a b 『寛政重修諸家譜』巻第六百七十九「半井」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.610。
- ^ “(七二)半井瑞策”. 堺市史 第七巻. 2023年7月19日閲覧。
- ^ 石野瑛 1937b, p. 318.
参考文献
[編集]- 石野瑛「京都大徳寺塔中真珠庵所蔵の半井家画像」『中外医事新報』第1241号、1937a 。
- 石野瑛「大医和気・半井家系の研究」『中外医事新報』第1247号、1937b 。
関連文献
[編集]- 田端泰子「『玄朔道三配剤録』と『医学天正記』から見た曲直瀬玄朔一門の患者とその時代 -とくに秀吉の番医制との関係を軸に-」『女性歴史文化研究所紀要』第22号、京都橘女子大学女性歴史文化研究所、2014年 。