十狐城

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十狐城
秋田県
別名 独鈷城
城郭構造 群郭式平山城
築城主 浅利與一則頼
築城年 永正年間(1504〜1521年)
主な城主 浅利氏
廃城年 慶長3年(1598年
遺構 出丸
位置 北緯40度11分28.39秒 東経140度36分24.37秒 / 北緯40.1912194度 東経140.6067694度 / 40.1912194; 140.6067694座標: 北緯40度11分28.39秒 東経140度36分24.37秒 / 北緯40.1912194度 東経140.6067694度 / 40.1912194; 140.6067694
地図
十狐城の位置(秋田県内)
十狐城
十狐城
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十狐城(とっこじょう)は、秋田県大館市出羽国)にあった日本の城平山城)。 別名:独鈷城。

概略[編集]

戦国時代、比内地方を中心に勢力を拡大した浅利氏の本拠地。 永正15 年(1518年)大館地方に移った清和源氏義光流の浅利與一則頼が最初に築城し、一族を比内地方に配置。勢力を拡大した。[1] 浅利勝頼が扇田や大館に城を構えるまでの主城とし、大日堂が守り神として現存している。 城郭規模は比内随一。

構造[編集]

炭谷川犀川に合流する地点の北東側の舌状台地に築かれている。 群郭式の平山城で、深い空堀によって区画されたI〜Ⅳの四郭と2つの出丸からなる。城の規模は東西約300m×南北約300m。

  • 【I郭(主郭)】城の中央に位置。東西約50m×南北約120m。周囲は高さ5〜6mの切岸に加工され、西側に折れ虎口が設けられている。

東側は谷地を利用した空堀で、東南の浮島と呼ばれる池から水が流れている。十狐城の水の手。I郭とⅣ郭間の堀を湿地状にする役割を持っていたものと推測される。

  • 【Ⅱ郭(西郭)】Ⅰ郭の西側、幅約40mの空堀武者溜か)を隔てて位置している。東西約40m×南北約130m。空堀とは坂虎口で繋がっている。

中央部より多量の焼米が出土したことから米蔵と称されている。

  • 【Ⅲ郭(北郭)】Ⅰ郭とⅡ郭の北側に位置し、東西約110m×南北約40m。元はⅠ郭と同一の台地だったが、幅約10mの空堀を設けて分断している。監視用の郭か。出丸が2カ所設置されている。
  • 【Ⅳ郭(東郭)】Ⅰ郭の東側に位置。東西約30m×南北約80m。

その他[編集]

十狐城の南には大日神社(現社殿(寛文12年(1672年))築)がある。浅利氏入部以前からあったとされているが、浅利則頼が再建(大永6年(1526年))後に浅利氏の氏神となった。 北側の沢に降りると中世の八角石造りの井戸、お茶の水(伝16世紀築造)がある。


脚注[編集]

  1. ^ 『東北大名の研究』一九八四年 吉川弘文館刊