十時惟次

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十時 惟次(ととき これつぐ、生年不明- 永禄12年5月1569年)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将戸次氏の家臣。十時惟通(孫右衛門)の子。子に十時惟則(下野守)、十時連貞通称は与兵衛、摂津。

生涯[編集]

豊後国の武将・十字惟通の子として誕生。父・惟通は、十時氏初代の十時(はじめ入倉)長門守の四男で、分流の出自にあたる。

年代不詳ながら、豊後国の戦国大名大友氏の重臣・戸次鑑連(後の立花道雪)に召し出される[1]天文11年(1542年)、大友宗麟大内氏へ寝返った筑前鷹取山城城主・森鎮実に対して、1,3000の大軍をもって城を包囲した際に、惟次は道雪の弓隊500兵を率いて福智山の中腹に登り、鷹取山城へ弓矢を射かけて落城の大功を立て、感状も受領した。その後、戸次鑑連が「道雪」と名乗っていた時期に所領として筑前国那珂郡板付村(現在の福岡市博多区板付)内30町を拝領される[2]

永禄12年(1569年)5月に筑前国長尾合戦[3]において、長男の惟則ともども戦死した。家督及び所領は次男の連貞が相続した。

脚注[編集]

  1. ^ 「柳河藩享保八年藩士系図・下」収録の史料に十時與兵衛宛ての鑑連公御判の乗馬出張の儀を賞する感状がある。
  2. ^ 「柳河藩享保八年藩士系図・下」収録。戸次道雪知行充状。発給元名義は道雪公。宛所は十時與兵衛
  3. ^ 「柳河藩享保八年藩士系図・下」。多々良浜の戦いを指すと思われるが参考文献の記述に従う

参考文献[編集]