中井喜太郎

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中井 喜太郎(なかい きたろう、1864年9月21日元治元年8月21日[1])- 1924年大正13年)4月25日[1])は、日本の新聞記者、新聞編集者、随筆家。号・錦城

生涯[編集]

元治元年8月21日、周防国岩国山手小路(山口県)にて生誕。1880年(明治13年)上京して成立学舎に入る。1882年(明治15年)大学予備門に入学。

1889年(明治22年)帝国大学を中退し、読売新聞社に入り、編集長、主筆として論説に筆を執る(1894年6月1日 - 1901年10月22日)。この間、東亜会国民同盟会対露同志会に深く関わり、対外問題に奔走。のち朝鮮に渡り韓城新報社長となり、対露開戦促進に動く。

1908年(明治41年)大韓帝国咸鏡北道の書記官となり、その後南洋開発にも関心を示した。著書に「無用の書」「南洋談」「Y新聞時代」などがある。

1924年(大正13年)4月25日死没(享年60歳)。

脚注[編集]

  1. ^ a b 日本人名大辞典+Plus, デジタル版. “中井喜太郎とは”. コトバンク. 2022年11月10日閲覧。