リンチンチン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
リン・チン・チン 映画『Frozen River』(1929年)

リン・チン・チン英語: Rin Tin Tin、もしくはハイフンを付けてRin-Tin-Tin1918年9月 - 1932年8月10日)は、国際的な映画スターとして活躍したジャーマン・シェパード。元々はドイツ帝国軍用犬だった。第一次世界大戦中、アメリカ兵のリー・ダンカン伍長によって軍用犬舎から救出され、「リンティー」という愛称が与えられた。終戦後、ダンカンによる調教を受けたリン・チン・チンはサイレント映画の仕事を獲得したが、この映画はすぐに興行的な成功を収めた。この成功により、彼はハリウッド映画27本に出演し、瞬く間にリン・チン・チンの名が世界に知られるようになった。既に映画界で活躍していたジャーマン・シェパードのストロングハート英語版とともに、彼の活躍はペットとしてのジャーマン・シェパード人気を大きく高めた要因にもなっている。また、彼の映画の莫大な収益はワーナー・ブラザースの成功にも貢献し、結果として同社の脚本家だったダリル・F・ザナックの出世を助けた。

1932年にリン・チン・チンが死亡すると、彼の名前は映画、ラジオ、そしてテレビで活躍するジャーマン・シェパードたちに引き継がれた。リン・チン・チン・ジュニア(Rin Tin Tin Junior)は、いくつかの連載映画に出演したが、父親ほどの才能はなかった。ジュニアの息子であるリン・チン・チン3世(Rin Tin Tin III)は、第二次世界大戦中に軍用犬の活用を促進することを助けた。リン・チン・チン3世はまた、1947年に子役俳優のロバート・ブレイクとの映画共演を果たしている。

ダンカンは1950年代のテレビ番組『The Adventures of Rin Tin Tin』のためにRin Tin Tin IVを訓練した。『The Adventures of Rin Tin Tin』はダンカンのイヌ4頭、リン・チン・チンII、リン・チン・チンIV、スタント犬ヘイ・ユー(Hey You)およびフレイム・ジュニア(Flame Jr.)を主役にしたが、フレイム・ジュニアはフランク・バーンズの所有であった。このシリーズは164話からなり、1954年から1959年にかけて初めて放送された。テレビ番組『Rin Tin Tin』は1958年と1959年にPATSY賞(PATSY Award)にノミネートされたが、受賞は逃した。

ダンカンが1960年に死去したのち、リン・チン・チンについての権利はTVプロデューサー ハーバート・B・レナード(Herbert B. Leonard)に渡ったが、彼は1988年-1993年のカナダ製のTV番組『Katts and Dog』のようなさらなる翻案ものに取り組み、この番組はアメリカでは『Rin Tin Tin: K-9 Cop』と、フランスでは『Rintintin Junior』と呼ばれた。レナードが2006年に死去したのち、レナードの弁護士ジェームズ・ティアニー(James Tierney)は、2007年の子供映画 『Finding Rin Tin Tin』を製作したが、これはフランスにおけるダンカンのイヌについての発見を題材とした、ブルガリア・アメリカ共同制作の作品であった。ジャネッティア・プロップス・ブロッズガード(Jannettia Propps Brodsgaard)は、1957年のRinty Tin Tin Brodsgaard、CD、Rin-Tins Rin of Brodsgaard、Daw-Gonの順に、ダンカンからリン・チン・チンIVの4人の直接の子孫を購入した。ダンカンの願いに沿って、ブロッズガードはそれらのイヌを飼育して血統を守った。ブロッズガードの孫娘ダフネ・ヒアフォード(Daphne Hereford)は1988年から2017年までリン・チン・チンの伝統と血統を継承しつづけた。彼女は1993年に「Rin Tin Tin」という名を商標登録した最初の人物であり(ダンカンは一度も商標登録をしなかった)、 rintintin.com や HollywoodDogs.com を含むいくつかのウェブサイトドメインを取得した。血統は2017年にアイオワ州のキャリー・ラグスデール(Carrie Ragsdale)とジョージア州のジョアン・ブラッドリー(Joanne Bradley)に渡された。

出自[編集]

第135航空隊(135th Aero Squadron)の将校と下士官 1918年に彼らのマスコット「リン・チン・チン」が子イヌとして救出された直後

サン・ミッシェルの戦い(Battle of Saint-Mihiel)によるアメリカ軍の前進に伴って、陸軍航空輸送の機上射手のダンカンらは、1918年9月15日に、フランスの小村フリレ(Flirey)に進出し、その地が自分の部隊 第135航空隊に適した飛行場になるかどうかを視察した[1][2]。この地域は、爆弾と砲兵の攻撃を受けていた中、ダンカンは、或る重大な損害を受けた犬舎を見つけた。それはかつてドイツ帝国陸軍(Imperial German Army)にジャーマン・シェパード・ドッグを供給していた。その犬舎で生きて残されたイヌは、飢えた母親1頭と養育されている子イヌ5頭だけで、子犬たちの眼はまだ閉じていたが、それは生後1週間未満だったからである[3]。ダンカンは、それらのイヌを救助し、自分の部隊に連れ帰った。

Rintintin と Nénetteで遊ぶ幼女の絵
(画)フランシスク・プールボ

子イヌらが離乳したとき、彼は母イヌを将校に、ひと腹の子らのうち3頭を他の兵士らに与え、彼はおす1頭とめす1頭を飼った。彼は、これら2頭のイヌが自分の幸運の象徴であると感じた。 彼は、フランスの子供らがしばしばアメリカ兵らに与えたRintintin(ランタンタン)とNénette(ネネット)フランス語版と呼ばれる一対の「幸運のお守り(good luck charms)」にちなんで、彼らをリン・チン・チン(Rin Tin Tin)とナネット(Nanette)と呼んだ。ダンカンは、ナネットのほうが子イヌ2頭のうち利口だと感じた[4][5]。(兵士らは通例、ランタンタンとネネットは爆撃を受けても生き残った幸運な恋人らであると聞かされたが、元のそれら人形は、戦争前の1913年後半にフランシスク・プールボ(Francisque Poulbot)によってパリの通りの腕白小僧に似せるようにデザインされていた。一般的な使い方とは反対に、プールボは、ランタンタンが女の子の人形だと言った[6][7]

1919年7月に、ダンカンは戦争の終結に、それらのイヌを乱雑に船に乗せて合衆国に連れ帰った。彼は、ニューヨーク、ロング・アイランドに到着したとき、再入国手続きのために、それらイヌを、ミセス・レオ・ワナー(Mrs. Leo Wanner)という、ニューヨーク州ヘムステッドのブリーダーの世話に任せたが、彼女は複数の警察犬を飼った。ナネットは、肺炎と診断された。代わりに、このブリーダーは、ダンカンに別のめすのジャーマン・シェパードの子イヌを与えた。ダンカンは、イヌらと一緒に鉄道でカリフォルニアに向かった。ダンカンが鉄道で旅行しているあいだに、ナネットはヘムステッドで死んだ。思い出のものとして、ダンカンは、新しい子イヌをナネット2世(Nanette II)と名づけたが、ナネットと呼んだ[8][9]。ダンカン、リン・チン・チン、そしてナネットIIは、ロサンゼルスの彼の家に腰を落ち着けた。リン・チン・チンは、ダーク・セーブル色で、たいへんダークな眼をしていた。ナネット2世は、色がはるかに明るかった。

ユージン・ポーレットという、運動選手サイレント映画俳優は、ダンカンの友人の一人だった。この二人の男は、アウトドアを楽しんだ。彼らはそれらイヌをシエラネバダ山脈に連れて行き、そこでパレットは狩りをするのを好み、ダンカンはリン・チン・チンにさまざまな芸を教えた。ダンカンは、自分のイヌ1頭は、ドッグ・ショーでいくつかの賞を獲得するかもしれない、だからナネットと交配された、子イヌ販売の貴重な源になるかもしれない、と考えた。ダンカンは、1922年にカリフォルニアのシェパード・ドッグ・クラブ(Shepherd Dog Club)の創立メンバーであり、その本拠はロサンゼルスに置かれていた。クラブの最初のショーで、リン・チン・チンは敏捷性を示したが、また、怒ってうなり声をあげたり、吠えたり、そしてかみついたりして攻撃的な気性をも見せた。成績はひどかったが、最悪の瞬間はのちに、ダンカンが家まで歩いて帰ったときにやって来た。重い新聞がひと束、配達用トラックから投げ出され、イヌに落ち、その左前肢を折った。ダンカンは、負傷した肢にギプスをはめ、そのイヌが元気になるまで9か月間看病した[10][11]

骨折から10か月後に、その脚が治り、リン・チン・チンは、ロサンゼルスのジャーマン・シェパード・ドッグのショーに出場した。リン・チン・チンは、たいへんな高さを跳び越えられるようになっていた。ドッグ・ショーで11 フィート 9 インチ (3.58 m)の勝利の飛越をしながら、彼は、ダンカンの知人チャーリー・ジョーンズ(Charley Jones)によって撮影されたが、彼はちょうどスロー=モーション・カメラを開発したばかりだった[12][13]。自分のイヌが撮影されているのを見て、ダンカンは、リン・チン・チンは次のストロングハートになり得ると確信するようになったが、ストロングハートは、成功した映画犬で、ロイ・ロジャース(Roy Rogers)から1ブロックとなりに住んでいた自分の所有者らの邸宅とは別に、ハリウッド・ヒルズのそれ自身の住所のある、自分自身の実物大の化粧漆喰のカリフォルニア・バンガロー(California bungalow)に住んでいた[14][15]。ダンカンはのちに、次のように書いた、「映画のアイディアにとても興奮していたので、気がつくと夜も昼もそのことを考えていた」("I was so excited over the motion-picture idea that I found myself thinking of it night and day.")[3]

経歴[編集]

リン・チン・チンのスター・デビューのポスター 『虎狼の群(Where the North Begins)』(1923年)

ダンカンは、イヌをポヴァティ・ロウを行ったり来たり散歩させ、どれほど謙虚な役割であれ、リン・チン・チンを映画撮影する立場にあるひとと話した。このイヌの最初の成功の好機は、ウォーレス・ビアリー主演の『雪中に飛ぶ砲弾(The Man from Hell's River)』(1922年)で、カメラぎらいのオオカミと代わるように依頼されたときにやって来た。そのオオカミは監督のためにきちんと芸をしていなかったが、ダンカンの口答指示の指導の下では、リン・チン・チンはオオカミと一緒に非常に簡単に仕事ができた。映画が完成したとき、このイヌは 「リン・タン」("Rin Tan")を演じるとして広告された[16]。リン・チン・チンは、経歴の中で何度もオオカミまたはオオカミ雑種として配役されたが、これは映画制作者は訓練を受けたイヌと仕事をするほうがはるかに便利だったからである。『My Dad』という別の1922年の映画では、リン・チン・チンは、世帯のイヌとして端役を獲得した。クレジットにはこうあった:「リン・チン・チン – 自分でプレイした」[17][18]

リン・チン・チンの最初の主演役は、『虎狼の群(Where the North Begins)』(1923年)のなかであって、サイレント映画女優クレア・アダムズ(Claire Adams)と共演した。この映画は大成功を収め、しばしばワーナー・ブラザーズを破産から救った功績があるとされてきた。それに続いて、さらに24のスクリーン出演が続いた。これらの映画のそれぞれは、非常に人気があり、ワーナー・ブラザーズのために多くの利益を上げたので、リン・チン・チンはスタジオのインサイダーから「モーゲージ・リフター」("the mortgage lifter")と呼ばれた[19]ダリル・F・ザナックという若い映画脚本家が、リン・チン・チンのストーリーの作成に関わっていた。これら映画の成功は、彼を、尊敬される映画プロデューサーの地位に引き上げた[20]。ニューヨーク市では、市長ジミー・ウォーカーがリン・チン・チンに市の鍵(a key to the city)を与えた[3]

リン・チン・チンは、ひっぱりだこで、複数のコマーシャル出演契約で署名した。彼は、Ken-L Ration、Ken-L-Biskit、Pup-E-Crumblesの広告で主演した[3]。ワーナー・ブラザーズは、リンティーの宣伝写真に対する何千もの要望を受け、リンティーは印刷された足跡とダンカンが書いた一行でサインされた:"Most faithfully, Rin Tin Tin"[3]と。1920年代に、リン・チン・チンがワーナー・ブラザーズに成功したことで、彼の人気につけこんでもうけようと努めている他のスタジオからのいくつかの模倣を、特に、これもジャーマン・シェパード・ドッグであるがRKOのエース・ザ・ワンダー・ドッグ(Ace the Wonder Dog)、を生じさせた[21]。世界じゅうで、リン・チン・チンは非常に人気があったが、それはイヌとして、彼は、すべての視聴者にひとしく十分に理解されていたからである。当時は、サイレント映画は、単にインタータイトル(intertitle)の言語を変えるだけで、さまざまな国に簡単に適応された。リン・チン・チンの映画は、広く配給された。1927年までに、リン・チン・チンは、ベルリンで非常に洗練された映画観客にとって最も人気のある俳優であった[22]

作家スーザン・オーリアン(Susan Orlean)は、1929年の最初のアカデミー賞競争で、リン・チン・チンが主演男優に最も多く投票されたというハリウッドの伝説を調査した[3]。オーリアンは、アカデミーはもっとシリアスに見えることを願った、彼らは人間の俳優が賞を勝ち取ることに決めた、と言っている。リン・チン・チンは選択肢として削除され、投票がもういちど行われた:ドイツの俳優エミール・ヤニングスが主演男優賞を受賞した(第1回、1927/28年)[16]

本来的にサイレント映画のスターであるが、リン・チン・チンは、発声映画4つに登場し、それには12部のマスコット・スタジオズ(Mascot Studios)のチャプター・プレイ 『The Lightning Warrior』(1931年)を含み、そこではフランキー・ダーロと共演した。これらの映画では、もし口頭の命令があればマイクロフォンによって拾われていたであろうから、それでダンカンはおそらくリン・チン・チンを手まねで導いた[23]。リン・チン・チンと他のクルーは、『The Lightning Warrior』の屋外アクション場面の多くを、カリフォルニア州ロサンゼルスのチャッツワース(Chatsworth)のイヴァーソン・ムーヴィー・ランチ(Iverson Movie Ranch)で撮影したが、そこは巨大な砂岩の巨礫で知られ、これらの映画の歴史で最も大々的に撮影された野外撮影場所として広く認められていた。

リン・チン・チンとナネットは、少なくとも48頭の子イヌをもうけた。ダンカンは、そのうちの2頭を飼い、残りを売るかまたは贈り物として与えた。グレタ・ガルボ、W・K・ケロッグ(W.K. Kellogg)、およびジーン・ハーロウはそれぞれリン・チン・チンの子孫の1頭を所有した[3]

死と栄誉[編集]

『極光に吼ゆ(A Hero of the Big Snows)』のポスター(1926年)
A Dog of the Regiment』(1927年)のロビー・カード(Lobby card)
Tracked by the Police』のポスター(1927年)

1932年8月10日に、リン・チン・チンは、ロサンゼルスのクラブ・ヴュー・ドライヴ(Club View Drive)のダンカンの家で死んだ。ダンカンは、未発表の回想録でこの死について書いた:彼はリン・チン・チンが独特の吠え方をしているのが聞こえたので、どうしたのか見に行った。そのイヌは地面に横たわっていて、死の数瞬前であった。国じゅうの新聞に死亡記事が掲載された。雑誌記事が彼の人生について書かれ、特別なムーヴィートーン・ニューズ(Movietone News)特集が映画の観衆に見せられた。報道機関では、その死に対して、リン・チン・チンは、映画『Pride of the Legion』(そこではリン・チン・チン・ジュニアが演技していた)のセットで死んだ、夜に死んだ、そして同じ通りに住んでいた女優ジーン・ハーロウの両腕に抱かれて家の正面の芝生で死んだ、というようなさまざまな作り話が付けられた。私的な儀式で、ダンカンは、裏庭で青銅の棺でリン・チン・チンを埋葬し、無地の木の十字架を立てて場所を示した[24]。ダンカンは、大恐慌の経済的影響を被っていたため、よりよい埋葬や自身の高価な家を買う余裕はなかった。彼は自分の家を売り、このイヌの死体が生国に帰り、Cimetièredes Chiens et Autres Animaux Domestiques(イヌその他の家畜の共同墓地)に再埋葬されるように静かに手配したが、その墓地は、アニエール=シュル=セーヌ(Asnières-sur-Seine)というパリ郊外の有名な愛玩動物の共同墓地である[25]

合衆国では、彼の死は、全国的な反応を引き起こした[26]。定期的な番組編成が、短いニュースによって中断された。翌日、リン・チン・チンに関する1時間の番組が、放送された[25]。1960年2月8日の式で、リン・チン・チンは1627年のヴァイン・ストリート1627番地(1627 Vine Street)でハリウッド・ウォーク・オブ・フェームで星型プレートで栄誉を授けられた[27]

映画作品目録[編集]

リン・チン・チンの最初のマスコット連続映画『The Lone Defender』のポスター
リン・チン・チンの最後の映画『The Lightning Warrior』(1931年)
公開年 邦題または/および原題 配役 備考
1922年 雪中に飛ぶ砲弾
The Man from Hell's River
Himself [28]
1922年 My Dad Himself [28]
1923年 虎狼の群
Where the North Begins
Wolf Dog, TheThe Wolf Dog [28]
1923年 北国の暗影
Shadows of the North
King [28]
1924年 義勇の猛火
Find Your Man
Buddy [28]
1924年 Hello, 'Frisco Himself
1924年 猛襲一騎打
The Lighthouse by the Sea
Himself [28]
1925年 猛犬奮迅
Tracked in the Snow Country
Himself [28]
1925年 吹けよ青春
Below the Line
Slasher, TheThe Slasher [28][29]
1925年 仇敵めがけて
The Clash of the Wolves
Lobo [28]
1926年 The Night Cry Himself [28]
1926年 極光に吼ゆ
A Hero of the Big Snows
Himself [28]
1926年 倫敦の丑満時
While London Sleeps
Rinty [28]
1927年 丘に叫ぶ声
Hills of Kentucky
Grey Ghost, TheThe Grey Ghost [28]
1927年 Tracked by the Police Rinty [28]
1927年 鋼鉄の牙
Jaws of Steel
Rinty [28]
1927年 A Dog of the Regiment Rinty [28]
1928年 力花一万弗
A Race for Life
Rinty [28]
1928年 Rinty of the Desert Rinty [28]
1928年 Land of the Silver Fox Rinty [28]
1929年 The Million Dollar Collar Rinty [28]
1929年 Frozen River Lobo [28]
1929年 The Show of Shows Himself [28]
1929年 激流恋をのせて
Tiger Rose
Scotty [28]
1930年 The Lone Defender Rinty Serial
1930年 On the Border Rinty [28]
1930年 The Man Hunter Rinty [28]
1930年 危機一髪
Rough Waters
Rinty [28]
1931年 The Lightning Warrior Rinty Serial

後継のイヌら[編集]

リン・チン・チン・ジュニア[編集]

The Law of the Wild』(1934年)のポスター
ジャッキー・クーパー、リン・チン・チン・ジュニア、およびジョセフ・カレイア 『僕の脱走記』(1936年)

リン・チン・チン・ジュニアは、リン・チン・チンによって作られたし、彼の母親は同じくリー・ダンカンが所有するリンウッド(Linwood)のチャンピオン・アスタ(Champion Asta)であった[30]。ジュニアは、1930年代にいくつかの映画に登場した。彼は、Mascot Picturesシリーズの『The Law of the Wild』(1934年)と『The Adventures of Rex and Rinty』(1935年)でレックス・ザ・ワイルド・ホース(Rex the Wild Horse)と主演した。彼は、その時代に制作されたラジオ番組の中のリンティーの役も同様に声を当てた。1941年に、リン・チン・チン・ジュニアは肺炎のために死んだ[31][32]

映画作品目録[編集]

公開年 邦題または/および原題 配役 備考
1932年 Pride of the Legion [33]
1933年 The Wolf Dog Serial
1934年 The Law of the Wild Serial
1935年 The Test
1935年 神馬レックスの復讐
The Adventures of Rex and Rinty
Serial
1935年 Skull and Crown
1936年 僕の脱走記
Tough Guy
Duke [34]
1936年 Vengeance of Rannah Rannah
1936年 Caryl of the Mountains
1937年 The Silver Trail
1939年 Hollywood Cavalcade Rin Tin Tin [34]
1939年 Death Goes North King [34][35]
1939年 Fangs of the Wild Rinty [34][36]
1939年 Law of the Wolf [34][37]

[注釈 1]

リン・チン・チンIII[編集]

リン・チン・チンIIIは、1947年の『The Return of Rin Tin Tin』で若いロバート・ブレイク(Robert Blake)とともに主演したが、カリフォルニア州キャンプ・ハーン(Camp Hahn)で第二次世界大戦での努力のために5000頭超のイヌの調教でダンカンを援助した功績が本来的にあった。

映画作品目録[編集]

公開年 邦題および/または原題 配役 備考
1947年 The Return of Rin Tin Tin

ラジオ[編集]

1930年と1955年の間に、リン・チン・チンは、1930年4月5日に始まった3つの異なるラジオ・シリーズで『The Wonder Dog』で配役され、そこではオリジナルのリン・チン・チンが1932年に死ぬまで音響効果の一部を演じた。 (イヌの物音の大部分は、ボブ・バーカー(Bob Barker)という名前の男性によってラジオでなまで演じられた)[39]。 この15分間の番組は、午後8時15分にブルー・ネットワーク(Blue Network)で土曜日に放送され、1931年3月に木曜日に移動した[40]。 筋は非常にありそうもなく、リン・チン・チンは1つのエピソードで巨大な火星人らから宇宙探検の科学者のグループを救った[39]

1930年9月に、タイトルは『The Wonder Dog』から『Rin Tin Tin』に変更された。ドン・アメチーとジュニア・マクレーン(Junior McLain)がそのシリーズで主演したが、それは1933年6月8日に終わった。Ken-L Rationをスポンサーとして、このシリーズは、1933年10月5日から1934年5月20日まで、CBSで続き、毎週日曜日午後7時45分に放送された[40]

1955年1月2日から1955年12月25日までの30分間の番組で日曜日の夜になると、最後のラジオシリーズが、MBSで放送された。シュレッデッド・ホイート(Shredded Wheat)とミルク=ボーン(Milk-Bone)のナビスコをスポンサーとして、このシリーズは、同時放送されたテレビ番組:『The Adventures of Rin Tin Tin』と同じ方法で第101騎兵隊とのリン・チン・チンの冒険を特集した。このラジオ番組はまた、ラスティ(Rusty)役でリー・アーカー(Lee Aaker)(1943年生まれ)、中尉リプリー・「リプ」・マスターズ(Ripley "Rip" Masters)役でジェームズ・ブラウン(James Brown)(1920年-1992年)、軍曹ビフ・オハラ(Biff O'Hara)役でジョー・ソーヤー(Joe Sawyer)(1906年-1982年)が主演した。

テレヴィジョン[編集]

中尉マスターズ役のジム・ブラウン TVシリーズ『名犬リンチンチン』(The Adventures of Rin Tin Tin)

ABCテレヴィジョン・シリーズ『名犬リンチンチン』(The Adventures of Rin Tin Tin)は、1954年10月から1959年5月まで放送された。ダンカンのリン・チン・チンIVが主役だったが、スクリーン作品のいくつかは、JR(Jay Areと発音する)というニックネームを付けられたフレイム・ジュニア(Flame Jr.)というイヌが演じ、そのイヌは調教師のフランク・バーンズ(Frank Barnes)が所有していた。レナードによると、ダンカンは毎日、自分のイヌらとともに撮影現場に居た。テレビのリン・チン・チンを演じたその他のイヌには、リン・チン・チン血統の、バーンズ(Barnes)のイヌ ブレイズ(Blaze)とダンカンのイヌ ヘイ・ユー(Hey You)とリン・チン・チンIIが含まれる。ユーは若い頃に眼にけがを負った。彼は、スタント・ドッグとして、そして戦いのシーンのために使われた。リン・チン・チンIIは、耳にけがを負い、のちにシリーズのオープニング・シーンでウマらを率いるイヌとして使用された。TVのリン・チン・チンは、サイレント映画の、オリジナルなセーブル色よりもはるかに色が薄かった[41]。ダンカンのリン・チン・チンのイヌらは、当時最も名高い血統の出身であったし、そしてInternational Champion Grand Victor Odin von Busecker Schloss、FH、Register of Meritの出身であった。

遺産[編集]

1960年9月20日に、リー・ダンカンは死亡した[42] 、「"Rin Tin Tin"」を商標登録しないままに[43]。 伝統は、テキサスでジャネッティア・プロップス・ブロッズガードとともに続き、そして彼女はダンカンから直系の子イヌを4頭購入した。 彼女の孫娘、ダフネ・ヒアフォード(Daphne Hereford)は、1988年12月17日の祖母の死後、血統とリン・チン・チンの血統の遺産を維持しつづけた。 ヒアフォードは、その伝統を HollywoodDogs.com のカリー・ラグズデール(Carrie Ragsdale)とジョアンヌ・ブラッドリー(Joanne Bradley)に渡した。 リン・チン・チン血統の或るイヌは、2011年の アメリカ人道協会(American Humane Association)のレガシー賞(Legacy award)の受賞者であったし、2012年6月6日に、サミュエル・ゴールドウィン・シアター(Samuel Goldwin Theatre)で特別番組『Hollywood Dogs: From Rin Tin Tin to Uggie』でアメリカ芸術科学アカデミーから表彰された。

文化上の言及[編集]

1976年、リン・チン・チンのデビューにおおまかに基づいた映画が制作された: 『名犬ウォン・トン・トン[44]。 プロデューサー デヴィッド・V・ピッカー(David V. Picker)は、ハーバート・B・レナード(Herbert B. Leonard)に料金を申し出たが、レナードは、この有名なイヌを嘲笑している映画の基本的な前提に同意しなかった。 レナードは、リン・チン・チンの遺産に対する権利侵害で映画製作者らを訴え、そして敗れた[45][46]

もともとレナードによって共同制作された、1988年-1993年のカナダのTVシリーズ 『Katts and Dog』は、或る警察官とそのイヌのパートナーの冒険を特集した。このシリーズは、アメリカの上映では『Rin Tin Tin: K9 Cop』と題され、フランスでは『Rintintin Junior』として発表された。レナードは、クリスチャン・ブロードキャスティング・ネットワークによって資金を供給されたが、その設立者であるテレビ伝道師パット・ロバートソンはその考えに熱心だった。レナードは、カナダの場所でのショーを手伝うことではなく、ロサンゼルスでの新しい妻との滞在のために、仲間のプロデューサーらによって批判された。第1シーズンの途中で、ロバートソンは、視聴者の何人かはプロットが未亡人となった母親を巻き込んだことを深く心配している、彼女は亡夫の弟と同じ家で未婚のまま暮らしている、と言った。ロバートソンは、訴えを阻止するために母親の登場人物を殺するように勧めたが、レナードは、そういう変更に反対した。レナードがショーをやめたのちに、問題のあるキャラクターは殺された。番組とは切り離されていたのに、レナードは、リン・チン・チンのスクリーン権の使用料を受け取り続けた[47][48]

2007年に、子供の映画が制作されたーー『Finding Rin Tin Tin』ーーこれはリー・ダンカンがフランスの戦場でリン・チン・チンを見つけ、彼をハリウッドでスターにするという物語に基づいていた。この映画は、2008年10月にテキサス州ヒューストンの連邦裁判所に、ダフネ・ヒアフォードによって提起された、映画撮影における非リン・チン・チン関係のイヌらの使用に関係するとして、リン・チン・チンのトレードマークへの彼女の権利を保護する訴訟の対象となった[49]。裁判所は、略式判決を下し、この映画における名前の使用は公正使用(fair use)であると宣言した[50]

リン・チン・チンを見つけ、育てたリー・ダンカンのフィクション化された記述は、グレン・デイヴィッド・ゴールド(Glen David Gold)作の小説『Sunnyside』の大部分を占める。

リン・チン・チンは、多くのフィクション作品の中でいちキャラクターとして登場していて、そのなかには、リン・チン・チンと他の動物のキャラクターらは互いに話すかけることができるが、人間に話しかけることはできない、或る児童書を含んでいる[51]

2011年に、作家スーザン・オーリアン(Susan Orlean)は、『Rin Tin Tin: The Life and the Legend』を刊行したが、これは、リン・チン・チンにかんするノンフィクションの記述である。

2011年10月に、ビバリーヒルズで最初の毎年恒例のアメリカ人道協会 ヒーロードッグ賞で、リン・チン・チン血統のイヌが最初のヒーロー・ドッグ・レガシー・アウォード(Hero Dog Legacy Award)で表彰された。ミッキー・ルーニーが、リン・チン・チンにかんする記念トリビュート・フィルムをナレーションした。或る第12世代のリン・チン・チン遺産犬(A twelfth-generation Rin Tin Tin legacy dog)がそこで受賞した[52]

リン・チン・チンについては、アンネ・フランクの日記の、1942年6月14日の2つ目の書き込みに言及がある。フランクは、自分がリン・チン・チンのようなイヌを飼っていたらいいのにと思っている。彼女はまた、1924年のリン・チン・チンのサイレント映画 『猛襲一騎打(The Lighthouse by the Sea)』についても書いたし、彼女と学校の友人らは、彼女の家で彼女の誕生日パーティーで一緒にそれを見物した。彼女によると、映画は、彼女の友人らには大当たりであった[53]

コメディー歌手レイ・スティーヴンス(Ray Stevens)は、彼のシングル「It's Me Again, Margaret」の再録音版でリン・チン・チンに言及し、そこでスティーヴンスは、「"I bet you can't guess what I'm doing"」という歌詞を、「"Wanna hear me bark like Rin Tin Tin??"」という歌詞に置き換えている。歌の再録音版は、1984年に大ヒットした。

脚注[編集]

[脚注の使い方]

注釈[編集]

  1. ^ この映画の主演がリン・チン・チン・ジュニアであるか、リン・チン・チンIIIであるか、それともことによるとダンカンが使用した別のイヌであるかについて混乱がある。[38][31]

出典[編集]

  1. ^ Orlean 2011, p. 21.
  2. ^ Orlean 2011, p. 28.
  3. ^ a b c d e f g Orlean, Susan (2011年8月29日). “The Dog Star”. The New Yorker. http://www.newyorker.com/reporting/2011/08/29/110829fa_fact_orlean 2011年10月17日閲覧。 
  4. ^ Orlean 2011, p. 31.
  5. ^ Orlean 2011, p. 32.
  6. ^ Les Poupées du Poulbot”. Poupendol.com. 2012年12月3日閲覧。
  7. ^ Présence d'André Malraux sur la Toile (2009年9月8日). “Nénette et Rintintin – notice” (French). Malraux.org. 2012年12月3日閲覧。
  8. ^ Orlean 2011, p. 43.
  9. ^ Orlean 2011, p. 44.
  10. ^ Orlean 2011, p. 46.
  11. ^ Orlean 2011, p. 47.
  12. ^ Orlean 2011, p. 48.
  13. ^ Orlean 2011, p. 49.
  14. ^ Orlean 2011, p. 64.
  15. ^ Orlean 2011, p. 65.
  16. ^ a b Schuessler, Jennifer (2011年10月20日). “Rin Tin Tin: American Hero”. The New York Times. https://www.nytimes.com/2011/10/23/books/review/rin-tin-tin-by-susan-orlean-book-review.html 
  17. ^ Orlean 2011, p. 68.
  18. ^ Orlean 2011, p. 69.
  19. ^ Orlean 2011, p. 81.
  20. ^ Orlean 2011, p. 78-80.
  21. ^ Basinger, Jeanine (1999). “Rin Tin Tin”. Silent Stars. Hanover, New Hampshire: Wesleyan University Press. pp. 451–466. ISBN 0-8195-6451-6 
  22. ^ Horak, Jan-Christopher (March 1993). “Rin-Tin-Tin in Berlin or American cinema in Weimar”. Film History (Indiana University Press) 5 (1): 60. JSTOR 3815109. 
  23. ^ Orlean 2011, p. 104.
  24. ^ Orlean 2011, p. 109-112.
  25. ^ a b Holmes, Linda (2011年9月24日). “Rin Tin Tin: From Battlefield To Hollywood, A Story Of Friendship: Monkey See”. Monkey See. NPR. 2012年5月17日閲覧。
  26. ^ Holmes, Linda (2011年9月24日). “Rin Tin Tin: From Battlefield To Hollywood, A Story Of Friendship”. WBUR. 2018年8月9日閲覧。
  27. ^ Rin Tin Tin”. Hollywood Walk of Fame. Hollywood Chamber of Commerce. 2015年11月30日閲覧。
  28. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z Rin-Tin-Tin”. AFI Catalog of Feature Films. American Film Institute. 2015年11月30日閲覧。
  29. ^ Rin-Tin-Tin”. British Film Institute. 2015年11月30日閲覧。
  30. ^ Orr, Gertrude, Dog Stars of Hollywood. Akron, Ohio: The Saalfield Publishing Company, 1936
  31. ^ a b Orlean 2011, p. 141.
  32. ^ Orlean 2011, p. 142.
  33. ^ “Rin Tin Tin Dies at 14 on Eve of 'Comeback'”. The New York Times. (1932年8月11日). https://query.nytimes.com/gst/abstract.html?res=9907E6D81E3EE633A25752C1A96E9C946394D6CF 2015年11月30日閲覧。 
  34. ^ a b c d e Rin-Tin-Tin Jr.”. AFI Catalog of Feature Films. American Film Institute. 2015年11月30日閲覧。
  35. ^ “Death Goes North”. The Film Daily 76 (18): 6. (July 27, 1939). https://archive.org/stream/filmdaily76wids#page/n181/mode/1up 2015年11月30日閲覧。. 
  36. ^ Fangs of the Wild”. Internet Archive. 2015年11月30日閲覧。
  37. ^ Law of the Wolf”. Alamy. 2015年11月30日閲覧。
  38. ^ Orlean 2011, p. 140.
  39. ^ a b Orlean 2011, p. 94.
  40. ^ a b Dunning, John (1998). On The Air: The Encyclopedia of Old-Time Radio. Oxford University Press. p. 578. ISBN 0-19-507678-8 
  41. ^ Orlean 2011, p. 191-193.
  42. ^ “Lee Duncan, Dog Trainer, Dead; Taught Rin Tin Tin of Movies”. NY Times (Riverside, Calif.: The New York Times Company): p. 32. (1960年9月21日). https://www.nytimes.com/1960/09/21/archives/lee-duncan-dog-trainer-dead-taught-rin-tin-tin-of-movies.html 2018年8月9日閲覧。 
  43. ^ Reynolds, Matt (2015年8月27日). “Judge Cancels Nine Rin Tin Tin Trademarks”. Courthouse News (Los Angeles). https://www.courthousenews.com/judge-cancels-nine-rin-tin-tin-trademarks/ 2018年8月9日閲覧。 
  44. ^ Eder, Richard. "Review," The New York Times.
  45. ^ Orlean 2011, p. 276.
  46. ^ Orlean 2011, p. 277.
  47. ^ Orlean 2011, p. 284.
  48. ^ Orlean 2011, p. 285.
  49. ^ Flood, Mary. "A pooch to protect." Houston Chronicle. October 6, 2008.
  50. ^ Flood, Mary. "Rin Tin Tin breeder loses suit against film studio: Houston judge rules dog’s name in title is fair use." Houston Chronicle. November 12, 2009.
  51. ^ Cooper, P.T. (2012). Rin Tin Tin and the Lost King. ISBN 978-0615651910 
  52. ^ “Hero Dog Awards Airs Tonight”. North Country Gazette. (2011年11月11日). http://www.northcountrygazette.org/2011/11/11/hero_dogs/ 2013年2月12日閲覧。 
  53. ^ Frank, Anne (1952). The Diary of a Young Girl. Doubleday. p. 12 

参考文献[編集]

  • English, James W. (1950). The Rin Tin Tin Story. Dodd, Mead & Co. (英語)
  • Orlean, Susan (2011). Rin Tin Tin: The Life and the Legend. New York: Simon & Schuster. ISBN 978-1-4391-9013-5 (英語)
  • Rothel, David (1980). “Man's Best Friends”. The Great Show Business Animals. A.S. Barnes. ISBN 0498025195 (英語)

外部リンク[編集]