フィローン・ジャラリーイ

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フィローン・ジャラリーイ
Филон Джалалій
ヘーチマン
称号 イーチニャ連隊長(1648年-1649年)
任命ヘーチマン(1651年)
チェルカースィ連隊長(1659年)
身分 シュラフタ
家名 ジャラリーイ家
民族 クリミア・タタール人
父親 プロキップ・ジャラリーイ
出生 不詳
ポーランド・リトアニア共和国、ヴェレミイフカ
死亡 1659年
コサック国家コノトプ
宗教 キリスト教正教会
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フィローン・ジャラリーイウクライナ語: Филон Джалалій, 生年不詳 - 1659年)は、ウクライナ・コサック司令官コサック国家イーチニャ連隊1648年 - 1649年)、チェルカースィ連隊ロシア語版の連隊長(? - 1659年)、任命ヘーチマン1651年)を務め、外交の分野でも活動した。姓はジェラリーイウクライナ語: Джелалій)、ジェジャリーイウクライナ語: Джеджалій)、ジュラーイウクライナ語: Джулай)とも書くことがある。

生涯[編集]

キリスト教に改宗してポーランド・リトアニア共和国の貴族となったクリム・タタール人の子孫で、登録コサックペレヤースラウ連隊百人隊長を務めていた。

1648年4月、フメリニツキーの乱の最初の合戦となったジョーウチ・ヴォーディの戦いの際に、チェルカースィ連隊百人隊長のボフダン・トウプィーハと共に、登録コサックを反乱軍に寝返らせ、ボフダン・フメリニツキーの側近となった。その後、1648年のコールスニの戦い英語版プィリャーウツィの戦い英語版、翌年のズボーリウの戦い英語版などに参陣した。

1648年10月にはフメリニツキーの使者としてオスマン帝国へ赴き、ポーランド・リトアニアからの離脱、並びに皇帝メフメト4世によるコサックの保護についての交渉を行った。11月にオスマン帝国はコサックの要求に受け、コサック国家を帝国の保護下に置く準備を進めた。1650年9月にコサックの大使としてモルダヴィアヴォイヴォダであったヴァシーレ・ルプ英語版の下も訪れ、コサック国家とモルダヴィアとの同盟と、ルクサンドラ・ルプポーランド語版ティモフィーイ・フメリニツキー英語版の結婚を成立させた。

1651年ベレステーチコの戦い英語版の時にジャラリーイは任命ヘーチマンを務め、大オサヴールとなった。1659年にロシアのコサック国家への侵略を防いだが、コノトプの戦いで戦死した。

参考文献[編集]

  • Коваленко, Сергій (2008). “Джалалий Филон” (ウクライナ語). Україна під булавою Богдана Хмельницького. Енциклопедія у 3-х томах. 2. Київ: Стікс 

外部リンク[編集]