ノート:F1ドリーム

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「F1鎖国」時代について[編集]

語源ははっきりした媒体ソースがない為、定かではないですが、フジ「F1ポールポジション」で70年代~の時代背景の特集をした時かに出てきたと思われます。

日本国内での第一次F1ブームがTBS「サンデースポーツ」内のダイジェストとして1986年まで放映したが悪い事に、70年代は相次ぐ安全性の懸念もある事故(参考:F1死亡事故一覧)が尾を引いていると思われ、 「鉄の棺桶」等のブラックイメージが囁かれていたのも当時のドライバー等の著書、自伝等(代表的なものに「ニキ・ラウダ/不屈のチャンピオン CBSソニー出版」等)にも記されており、「鉄の棺桶」については「F1ポールポジション」内でもそう形容されていた記憶があります。

日本での1976年F1世界選手権イン・ジャパンと1977年日本GPの開催により 日本のF1熱は加熱はしたが、1977年のヴィルニューヴの観客を巻き込んだ事故により大会後、当時サーキットレースもろとも一緒くたに当時暴走族による暴走行為が多発し社会問題となっていた日本で、「スピード=悪」として捉えられていた時代背景も絡んでいる。

当時の新聞等でもヴィルニューヴの観客事故に関しては大々的に報道されていた為、F1に対しての事実上の冷却期間とも言える。

参考:「All for Win」 http://afw.fc2web.com/ziko/1977nihongp.htm

話はゲームの版権に戻りますが、 実質これらの影響から、F1事情的に考えると開発当初が中嶋悟がフル参戦し、中継も行われるようになった1987年と考えるとレースのシステム的な情報等を綿密に参考とするものは紙媒体での情報に頼るしかない一般的な事情と、 モータースポーツ等の実在するものに対して事実上ライセンシーを通す事自体に不慣れであった日本のゲームメーカーの事情(当時、現在で実名で版権を使用するものの多くは版権よけでもじったものが多く、唯一楽曲で後から版権を通して居た作品をもつセガも後年のスーパーモナコGPでマールボロのロゴを後から隠し、フィリップモリス社に賠償金を支払った)もあり、これらの事情も折り重なって架空としていると思われます。 そして、これらの問題はインベーダーのコピー問題から比べると小さい事と言う事もあり、当時ゲームメーカーにとっては「実名」は注視せず「架空」とした業界体質でもあった事も重なっています。

実際にゲームで実名、実コース名が使用されるものは91年F1_GRAND_PRIX_(ゲーム)まで待たねばならなかった。 --219.117.176.151 2010年5月31日 (月) 17:31 (UTC)[返信]