ノート:黒船来航

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嘉永5年のオランダ「別段風説書」の内容が流布しているものと一致しません。「拒否すれば戦争」というような内容は見かけませんし、また「風説書」は事実を述べるのみで、「長崎で米国と交易すべき」と言うような意見が含まれることはないと思われます。オランダは、日本が米国と条約締結する前に日本との条約を締結すべく、クルチウスが活動していますので、その活動と混乱が生じているのではなますいかと思われます。--Hkusano 2010年6月29日 (火) 15:43 (UTC)[返信]

申しあけありません。幕末出島未公開文書に当たれなかったので正確な記述になっていませんでした。とりあえず幕末出島未公開文書について付記し該当記述は削除したしました。--Izayohi 2010年6月30日 (水) 05:45 (UTC)[返信]
ありがとうございます。とりあえず、別段風説書の内容と、バン・トゥイスト書簡の内容を、外部リンクに示したページを参考に分けて記載しました。「拒否は戦争になるかもしれない」という文言は確認できませんでしたが、資料をお持ちでしたら追加してください。バン・トゥイスト書簡はペリーの来航をネタに、アメリカに先駆けオランダとの条約を平和的に結ぶことが目的の一つですので、ペリーの脅威が誇張されていてもおかしくないと思います。--Hkusano 2010年6月30日 (水) 06:28 (UTC)[返信]

想定される航路[編集]

Hkusanoさんの編集[1]で、「西海岸から北上し、アリューシャン列島千島列島沿いに南下、津軽海峡経由で日本海に出て上海に到着する、大圏コース」をとるために「津軽海峡に面した箱館に補給拠点をおくことが望まれた」との加筆がありました。この記述について出典を挙げることができますか? 現在のコンテナ船が津軽海峡・対馬海峡の日本海航路という純粋な大圏航路を選択しているのは事実です。しかし、帆走を併用した19世紀半ばの蒸気船ではかなり等角航路に近い経路を取らざるを得なかったと思われます。(1)渡辺惣樹『日本開国 アメリカがペリー艦隊を派遣した本当の理由』(草思社、2009年)の27「ニューヨーク---太平洋ハイウェイ構想」のグレートサークルルートの安全航行」を見ると、「上海から日本の東岸を抜け、アメリカ北西部に抜ける航路(グレートサークルルート)」という表現になっています。これは日本列島の太平洋側を通ると読めます。(2)渡辺惣樹『日米衝突の根源 1858-1908』(草思社、2011年)92ページは、1862年にカリフォルニア州議会が連邦議会に対して「サンフランシスコと支那・日本を結ぶ郵船ルート開設を後押しするよう請願」し、この請願を受けて連邦議会がこのプロジェクトを立法化したのは1865年だったとし、「この法律では以下の条件を満たすことのできる会社が政府の支援を求めて名乗りをあげることができました」と記す。その条件とは「サンフランシスコと支那帝国を結ぶ海運サービスを提供すること。このルートではホノルル(サンドウィッチ島)及び日本の一つないし二つの港を経由こと。最低月一回の運航の義務と、外洋航海に十分に耐えられるファーストクラスの蒸気船を使用すること。船舶の大きさは三千トンを下回らないこと」だとといい、「公募に応じたのはパシフィック・メール蒸気船会社一社」だったとする。新聞記事データベースで朝日・読売を検索して見ると、1890年代の北米西岸から上海経由香港行きの客船の航路は、横浜~紀淡海峡~神戸~瀬戸内海~関門港~上海~香港、が一般的のようです。--rshiba会話2013年1月21日 (月) 11:33 (UTC)[返信]


ジョン・C・ペリー『西へ! アメリカ人の太平洋開拓史』(PHP研究所、1998年)が参考になりました。(1)126~131頁に、大圏航路という概念を最初に理解し広めたマシュー・ファンテイン・モーリー(マシュー・フォンテーン・モーリーen:Matthew Fontaine Maury)についての記述。黒船来航の時に概念としてはアリューシャン列島付近を通過する航路が最短経路であることがアメリカで知られていたのは確か。しかし、(2)145頁に、「ペリーの全体構想の中では、赤道以北の太平洋全てはアメリカが掌握するのを待っているはずだった。ペリー以前に、太平洋をそのように包括的、あるいは明確な視点で把握したアメリカ人はいなかった。ペリーの構想した蒸気船で結びつけられた新しい帝国を留める鋲は、ハワイ(彼は行かなかったが)、小笠原諸島、琉球列島、台湾だった。商業活動はその寄港の潤滑油となり、商業活動はアメリカだけでなくアジアも利するはずだった」との記述があります。石炭燃料で、帆走を兼用する時代の蒸気船は、等角航路的な南回り航路が現実的だったということでしょう。--rshiba会話2013年1月21日 (月) 12:23 (UTC)[返信]


ご指摘ありがとうございます。該当の記述は石井孝著『日本開国史』のp20-24あたりによりました。1848年5月4日の下院海軍委員キングの報告に、この航路(津軽海峡経由)のことが言及されています。さらに財務長官ウォーカーが同年12月に同様のことを述べています。実際にこの航路が使われたことがあるかは存じませんが、少なくとも米墨戦争直後の認識では、日本との貿易は重大な事項ではなく、中国に到達するまでの補給地として考えていたようです。また該当の資料を参考資料に追加するのを忘れておりました。申し訳ありません、--Hkusano会話2013年1月21日 (月) 15:34 (UTC)[返信]