ノート:黒澤貞次郎

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黒沢貞次郎がニューヨークに居を移した時期[編集]

私の日記にも書いたのですが、黒沢貞次郎がニューヨークに渡ったのは、1898年になってからのことだと思われます。ただ、これを私が書くと、どう考えても独自研究なので、「ページ」の変更は、どなたかの判断におまかせいたします。--安岡孝一会話2012年9月1日 (土) 06:15 (UTC)[返信]

「1897年ニューヨークに渡り」の記述を「1898年」に修正すべしとのご提案のようですが、不確かとはいえ 本人:黒澤貞次郎著書中の「1896年」等の可能性は 否定しきれているのでしょうか?1896年当時 シアトル側には黒沢が所在した痕跡は残っておりますか? もし 空白期間がありましたならば あるいは黒澤は 数次にわたり 西海岸側:シアトル  東海岸側:ニューヨークを 移動したことも考えられますし。ご指摘の1897年12月18日シアトルの記事の解釈が事実ならば 1898年初ごろには一回 西海岸から東海岸へ移動したことにはなりましょう。ただ、それが初回かどうかは もうすこし慎重に見てもよいのではないか というのが私の申したかったことでした。 (参考)「(二一) 1896年ニューヨルク在留中に「エリオット、ハッチ」の工場で段々と研究をつゞけ(黒沢貞次郎『タイプライターの沿革』 近代化デジタルライブラリ)」--Raycy会話2012年12月19日 (水) 02:54 (UTC)[返信]

GFDL違反の転載を警告_(安岡孝一先生が→Raycyに対して)[編集]

Raycyさん、あなたがリンクしている先のページの一つ[1]に、私(安岡孝一)がこのノートに書いた文章が転載されているのを見つけました。これは私がWikipediaに投稿した文章ですので、転載するのならGFDLとCC-BY-SAに、きっちりと則った形でお願いします。ただし、私が三省堂ワードワイズ・ウェブやスラッシュドットに書いた文章は、もちろんGFDLではないので、その点もちゃんとクリアした形で、転載をお願いします。--安岡孝一会話2012年12月5日 (水) 23:50 (UTC)[返信]

回答について下書き中です[2012年12月6日 (木) 08:50‎ GFDL違反の転載を警告 - 安岡孝一先生ご指摘(2012年12月6日 (木) 08:50)に答えるための下書き]。お急ぎならば ご提訴ください--Raycy会話2012年12月11日 (火) 22:04 (UTC)[返信]
「提訴」ですか…。あまり気乗りはしないのですが、急いでますので致し方ありません。--安岡孝一会話2012年12月12日 (水) 13:28 (UTC)[返信]
なるほど、私は“引用”しているとの基本認識でおります。ですが 安岡孝一先生は別のお考え “転載”との認識でおられるのかなとお見受けいたしました。回答詳細については 別途下書き中です。経過は 先にあげたリンク先 [2012年12月6日 (木) 08:50‎ GFDL違反の転載を警告 - 安岡孝一先生ご指摘(2012年12月6日 (木) 08:50)に答えるための下書き] 、および 私にとって書きなれたブログ側 [葉仮名raycy - KliologY:"GFDL違反の転載を警告"嫌疑云々] 等にあります。--Raycy会話2012年12月12日 (水) 15:26 (UTC)[返信]
はてな法務関連窓口から、 安岡孝一先生から 著作物の無断掲載および改変申し立てがあった旨 のメール 2012 17:12:47に来てました。拝領。http://kygaku.g.hatena.ne.jp/raycy/20121213/1355333816 --Raycy会話) 2012年12月12日 (水) 18:47 (UTC) 提訴 は 私に対しては前回:霊犀社2に続き これで2回目でしたっけか 一段と手際がよろしいようで。--Raycy会話2012年12月13日 (木) 04:15 (UTC)[返信]
Wikipediaを引用する場合のガイドラインにはGFDLの文言の記載を求めておらず(Wikipedia:ウィキペディアを引用する) というか 記載しないようにガイドしているようにも見える、 自ずと ライセンスの汚染対策ともなる、。安岡孝一先生のご教示に従えば それは 正式“転載”であるための要件ではありましょう。貴ご主張間に矛盾は無い 一貫している  私の行為が“無断転載および改変”とのご主張な訳ですから。“引用”行為と信じ込んでいるから公開しているっぽい私の無知に わざわざ ご丁寧に ご指導いただき ありがとうございます。GFDLの導入うーん。ライセンスに従うと いいことあるかも?--Raycy会話2012年12月14日 (金) 00:38 (UTC)[返信]
安岡孝一様 葉仮名raycy記事中の引用について GFDLライセンスあるいはCC-BY-SAを遵守せよとのご警告は 合点がいきません。引用ガイドラインはそれを求めていない。むしろ 意にそぐわぬ記事への編入ということで 著作者人格権侵害ということならば そうなのかも とも思える。この箇所に関しては 安岡孝一先生の文言引用を Raycyの文言に置き換えることで対処いたしましょう。ただ、デジタル証拠保全的意味合いで 訂正前のバックアップを 一応採っておいてからということにいたしましょう。しばらくお待ちください。--Raycy会話2012年12月14日 (金) 23:38 (UTC)[返信]
Wikipedia:ウィキペディアを引用するをお読みになったのなら、「引用の仕方」のいちばん最初のところに『特定の著者を引用「しないで下さい」』(You should not cite any particular author or authors for a Wikipedia article, in general.)と書かれていたはずです。その一般的原則にしたがわず、私(安岡孝一)という特定の著者がこのノートに書いた文章を転載した以上、いまさら引用を主張なさるのは無理だと思います。--安岡孝一会話2012年12月15日 (土) 15:04 (UTC)[返信]
ノート内の話は 私Raycyもここにアクセス可能でしたので、こちらにアクセスして書き込み ここコミュニティー内だけの話として済ませるべきでした。この部分の旧記述を削除し 思慮の足りなかったことを恥じ また お詫びいたします。--Raycy会話2012年12月19日 (水) 03:40 (UTC)[返信]
「Wikipedia内での各文章種やら区画ごとのライセンス解釈について」ってな この手のこと、 ノートページでの利用マナーみたいなことについては、Wikipedia:ノートページのガイドライン#コメントの編集に 他人のコメント/自分のコメント という項にまとめられているようなので それをここに示し、当該部分を 以前の版から 削除しました。--Raycy会話2012年12月19日 (水) 02:31 (UTC)[返信]
ご指摘いただいた私Raycyのブログ記事は、ネットリンク先citeだけを入力する "はてな"の自動引用記法で<blockquote></blockquote>と自動取得されたタイトルを付加するモード(:title)で記述しておりました。ご指摘の通り このままでは 著者名の表示等 引用の要件を満たさない場合のあろうことを確認いたしました。お詫びいたします。しかしながら 現状 url先とのリンクは まだ切れておらず、リンクをたどれば 著者名等すべて取得できる状態であります。また当方ページは ある特定の人物にデディケートする形で発足しております。このあたりも斟酌していただけましたならばと希望します。なお、現状につきましては非公開としております。今後につきましては 別途協議させていただきたく思っております。--Raycy会話2012年12月19日 (水) 06:06 (UTC)[返信]

尾張町二丁目でしょう。旧黒澤商店ビルの所番地[編集]

google:No.1 Owaricho Nichome Teijiro Kurosawa 「当時の東京市京橋区尾張町1丁目(現在の東京都中央区銀座6丁目9-2)に建設した黒澤商店ビル」ですが、ネット上では 尾張町2丁目という記述が多いような。 また、その地所の元の所有者が「今井商店」であったとすれば、支店か何かかもしれないが「今井商店」の営業地も 確認を要するような。--Raycy会話) 2012年11月2日 (金) 05:50 (UTC) 「尾張町二丁目角は今井室内装飾店だった。」とあるようだ。(『明治の銀座職人話』143ページ http://books.google.co.jp/books?id=DhIJAQAAIAAJ&q=%E4%BB%8A%E4%BA%95 )--Raycy会話2012年11月2日 (金) 06:10 (UTC)[返信]

尾張町二丁目1番の土地の収得時期[編集]

「1906年 東京市京橋区尾張町2丁目に、黒澤商店の移転先としての土地を取得。」ですが、1980年9月の推測 http://kygaku.g.hatena.ne.jp/raycy/20121102/1351812075 http://ci.nii.ac.jp/naid/110004094750 では 尾張町2丁目-1のうち その極角地部分の収得は 若干遅れた可能性があるかも とのことで、あるいは 一部用地は 1909年を過ぎてからの収得かもしれない。--Raycy会話2012年11月8日 (木) 02:32 (UTC)[返信]

野田正一と思われる。野間ではなくて。今井商店土地家屋の整理売却の件にからんで。[編集]

尾張町二丁目一番の土地家屋の件は、碌々商店の創業者の少なくとも一人が野田正一であり http://www.roku-roku.co.jp/policy.html その共同創業メンバーの一人と思しき中村幹治によれば http://kurosawa.pagesperso-orange.fr/document.html#%E5%BC%94%E8%BE%9E この野田君が碌々商店に一旦預かり持ってきた話のようである。http://kygaku.g.hatena.ne.jp/raycy/20121120/1353372802 --Raycy会話2012年11月20日 (火) 16:01 (UTC)[返信]

黒澤貞次郎の国産印刷電信機の開発[編集]

逓信省工務局にあって、親しく黒澤貞次郎の業績を見てきた大内誠三が、追憶文の中で、 「和文タイプライターの試作と採用及び国産印刷電信機の製作実用化の2つは氏が残した偉大なる功績と云わねばならない」「くろさわものがたり」(黒澤張三) と述べているとおり、和文タイプター(カナタイプライター)の開発と並んで、国産印刷電信機の開発も、黒澤貞次郎が残した偉大な業績である。 ウィキペディアではカナタイプライターについては触れているが、国産印刷電信機のことは(直接には)書かれてないのは不十分である。「1940年大毎・東日通信賞を受賞」とあるが、この受賞は国産印刷電信機開発の功績に対してであるという説明がなければ、全くわからない。 この印刷電信機国産化がどれほど大きな意味を持つものであったかは、国家の中枢神経たる印刷電信が、全く外国の機械に依存している危うさを考えれば十分納得できることであるが、しかも輸入品は著しく高価な上、供給が滞りがちであった。国産化実現の昭和12年から数年で太平洋戦争が勃発して、米国製の機械の輸入は途絶えた。

[補足・訂正] ●1917年6月21日、大阪中央電信局にカナ・タイプライター2台を納入。[*1] ●1924年 カナ・タイプライタ-が大阪中央電報局の全回線に使用される。[*2] ●1927年2月 国産印刷電信機開発を志し、逓信省より技術者を招く。[*3] ●1928年11月 カナ・タイプライター開発の功績によって紫綬褒章を受章。 ●1934年1月~11月 逓信省の要請に応えてただ1社提出した印刷電信機試作品の試験。[*4] ●1935年8月~1936年11月 数回にわたる試作品の試験・改良。[*4] ●1937年11月3日 黒澤商店製国産印刷電信機により、東京―大阪1番線で商用試験開始。

 [*4]

●1940年5月1日 国産印刷電信機開発の功績によって大毎・東日通信賞を受賞。[*5]

[注釈] *1 [出典1、2] *2 当初の2台は、モールス受信テープを翻訳してカナ文字で印刷する(飜書)ために使われたが、モールス信号を聞きながら、カナ文字で印刷する音響直接受信に用途が 拡大し、大正13年には、大阪中央電報局はすべての回線をタイプライター直接受信に切り替えた。[出典1] *3 逓信技師松尾俊太郎黒沢商店入社 [出典3] *4 [出典4、5] *5 大阪毎日・東京日日新聞社設定、通信・印刷技術の功労者を表彰する。

[出典] 1. 大阪中央電報局:大阪中電のあしあと 大阪中央電報局一一〇年史, 大阪中央電報局、1984、p.109-110 2. 黒澤貞次郎:「タイプライターの沿革」(和文印刷電信機施設技術官講習会教本)、  黒沢商店、1927 3 松尾俊太郎:松尾式印刷電信機、電信電話学会雑誌、第112号、1932 4. 逓信省:逓信事業史 第3編、逓信協会、1940、p.346- 5. 日本電信電話公社電信電話事業史編纂委員会:電信電話事業史、第5編第5章、電気通信協会、1960、p.373-375

                                   2017.2                                     中川三男

「いろおんぷ」の「たなかすみこ」は次女とは別人か[編集]

「系譜・家族」の「次女 すみ」のところに、 2013年3月23日 (土) 05:43‎ Tobewest3 以来、「田中すみは幼児音楽教育メソッド「いろおんぷ」を考案。」と書かれていました。わたしは、「いろおんぷ」の考案者を「たなかすみこ」として知っており、同じ人にちがいないと思い、CiNii books で「田中すみ」という著者名の本の書誌情報もみつけたので、 2019年10月2日 (水) 23:28‎ に 「幼児音楽教育メソッド「いろおんぷ」を考案。その初期は田中すみ、のち、たなかすみこ名義で多数の著作がある。」と修正しました。 しかし、今日、国会図書館の Web NDL Authorities https://id.ndl.go.jp/auth/ndla で「たなかすみこ」を検索してみたところ、(別名「田中 すみ」もありますが) 生年が 1921年となっていました。本記事の黒澤貞次郎の次女とは生年があいません。 「次女 すみ」の項目から「いろおんぷ」関係のことを消去すべきかと思いますが、ひとまずコメントアウトしておきます。--Masudako会話2022年1月3日 (月) 20:29 (UTC)[返信]