ノート:高砂染

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高砂町は本多忠政公の時代に町割りされて開発した場所であり、尾崎家が池田輝政より命を受けて考案したという説には時代に錯誤がある。高砂町には、後に書かれた慶長文書が数件存在し、そのひとつであると思われるため、根拠に乏しい説である。( 姫路美術工芸館紀要3-6頁参照 )--以上の署名のないコメントは、兵庫の歴史人会話投稿記録)さんが 2022年6月26日 (日) 13:22‎ (UTC) に投稿したものです(高砂の浦会話)による付記)。[返信]