コンテンツにスキップ

ノート:飯塚桃葉

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。

疑問点[編集]

初版の内容が正確ではありません。下記の箇所に、典拠との矛盾、不正確な表現点があります。IP利用者会話ページで連絡を取ろうと考えますが、典拠を補足された利用者の方には申し訳ないながら、1週間ほどでいったん削除、書き直す方が良いのではないでしょうか。

  • 「別号に観松斎」
→号はこのほかにありません。脚注はないものの、「参考文献」欄(参考資料に修正)に示されたコトバンク({{sfn|小松|1994|loc=『朝日日本歴史人物事典』、コトバンク}})と矛盾。
  • 「付き人となり蒔絵を創始する」。
→典拠を探しましたが矛盾します(本文でコメントアウト、{{sfn|横井|1894|page=37}})。付き人という役職に就いていない。蒔絵の創始者ではない。
  • 「重喜に従事し、金貝や切金等を併用して精密で華麗な蒔絵の作風は「印籠蒔絵」と呼ばれ一躍有名となった。以後桃葉の子孫も代々阿波藩の付き人を継いだ。」
→人に従事は表現の誤り。「印籠蒔絵」は職種が印籠蒔絵師であって、作風ではありません。号の継承は要出典。
  • 下駄のエピソード。「桃葉が藩主からの依頼により、下駄に蒔絵をするといった斬新な技術をしたという逸話が残されている。」 
→典拠と反対の記述です(本文でコメントアウト、{{sfn|横井|1894|page=37}})。下駄に施すのでは蒔絵に対する侮辱だから大金を積まれても拒否すると答え、命令に従わず、その点を気に入られて仕官できたのでは? 要出典。
  • (「宇治川蛍蒔絵料紙硯箱」は)「蜂須賀氏]]から皇室に献上されたといわれている。」
→不正確。提示された典拠に「観松斎 桃葉造」の銘入りと示されています(本文でコメントアウト、{{sfn|小松|1994|loc=『朝日日本歴史人物事典』、コトバンク}}</ref>)。他の典拠に阿波藩から献上されたと明記あり(本文でコメントアウト、{{sfn|建築工芸画|1913|page=コマ番号0011.jp2}}</ref>)。

--Omotecho会話2021年8月26日 (木) 09:54 (UTC)[返信]