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ノート:錦鳳堂永雄

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改名提案[編集]

盆画独稽古初編』(文政11年刊行)の跋文に、「もとより永雄ぬしは画をこのみ、かつしか為一先生の門人存斎光一といへり」とありますが、この「永雄」とは錦鳳堂永雄(きんぽうどう ながお)の事です。序文にも「おのれがしたしうせる永雄ぬしのめ(妻)の君を、永女のとじ(刀自)とぞよぶめる」とあり、錦鳳堂永雄は江戸時代後期の狂歌師で、女流狂歌師の月花永女の夫。『狂歌人名辞書』や『国書人名辞典』第二巻に名があります。「存斎光一」はこの錦鳳堂永雄と同一人であると考えられ、よって当記事名を存斎光一から錦鳳堂永雄に改名することを提案します。

以下参考に『盆画独稽古初編』の序文と跋文の翻刻を示す(ただし原文には無い濁点を補い句読点を加えた)。

(序文)[1][2]

盆画といふものはいつの時よりおこりけん、ある人のつたへには東山どのゝ御時、たはぶれにものせさせ給うけるよしいへりける、さることにや。さるはいつゝの色の砂どもをもて、山水のすがた、木艸人物はさらなり、鳥けだもの蟲魚のさまなどをつくれる、さながらいきてはたらくかとぞみゆる。これは光悦といふ人、ならびなき上手にて有ければ、末の代にも其流れをくむ人さはなりとなん。おのれがしたしうせる永雄ぬしのめの君を、永女のとじとぞよぶめる、此人はやうより此道をまなびて、すき物し給へりしが、らうらうしくかどある人にて、つひに道のおくをきはめ給ひ、まなびのおやとあがめられて、いみじくになき名をぞとり給ひぬる。ことしひとつのふみつくりて、うひまなびの人のこゝろえやすからんためにとて、くさぐさのかたちをさへ絵にものして、しさいにそのつたへをぞしるしつけられたる。じちにまめごゝろのいたれる、賞せんにもことのはたるまじくなん。今よりこの道をまなばん人、此さうしをもてかけはしとなさましかば、あまくもおほへるたかき山にも、やすらかにのぼりいたりぬべし。そは此としのたま物なることをよくまなび、とりたらん人は心ぞしみてしるべきになん。

  六樹園
(跋文)[3][4]

盆画は本阿弥光悦の流をくみたる、山水華鳥を匕もて彩どる画のことは、しろきを後とすなをなるをゝなの業に、丹青のいろ砂の妙手を顕はす。春秋庵のぬしは愚老が門人にして、俳諧うたは四方側の判者となれり。鳥の跡さへ予が消息を見習ひて、筆子を集むとて、めの子の躾かたよく盆画におよびては、宮仕へにも上りぬるもおほかめり。されば此業の習ひ易きことを、手もて教ゆるごとく図画して小冊となれるを、書林の需によりて梓上せしむ。尤山水花鳥は好人の目には、月花のよし野よくみてよしとほむる、狂歌堂老師の賛を添へられ、はたやむごとなき君の御歌をも戴き、名だゝる判者たちのをもあつめたる、一部の序跋は五老先生、本阿弥先生をくはへ全尾せしも、錦鳳堂の心くばりして切なりぬべし。もとより永雄ぬしは画をこのみ、かつしか為一先生の門人存斎光一といへり。是等のことをいゝならぶるも、子どもに目なき親ぼめとも、えゆるし給ひね。

  秋長堂老人しるす

--ものぐさたろう会話) 2024年6月6日 (木) 00:00 (UTC) 訂正--ものぐさたろう会話) 2024年6月6日 (木) 04:00 (UTC) 訂正--ものぐさたろう会話) 2024年6月6日 (木) 05:35 (UTC) 訂正--ものぐさたろう会話2024年6月6日 (木) 10:05 (UTC)[返信]

提案から一週間経ちましたが、他にご意見もないようなので当記事名を錦鳳堂永雄に改名します。--ものぐさたろう会話2024年6月13日 (木) 00:01 (UTC)[返信]