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ノート:鈴木孫六

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前に作成したものが不足していたため加筆いたしました。--凹凸 2008年12月20日 (土) 09:57 (UTC)[返信]


編集お疲れさまです。
本記事をみて、ふと気になったのですが、記事名の「雑賀孫六」というのは「鈴木孫六」にした方が良いのではないでしょうか?
孫一など他の雑賀党の人物の各記事は鈴木姓を採用しております。孫六だけ雑賀姓で記事が書かれているのは違和感を感じるのですが、何か特別な理由があっての事でしょうか?
もしも、特別な理由が無いのならば、「鈴木孫六」への移動、及び「雑賀孫六」のリダイレクトページ化も検討してみてください。
突然の不躾な投稿、失礼いたしました。
Carbucketty 2008年12月21日 (日) 12:04 (UTC)[返信]
了解致しました。もっとも僕は鈴木より雑賀という呼称の方が好きなんですが、ウィキペディアは自らの意思を入れてはいけないのでこの文を書き次第実行させていただきます。--凹凸 2008年12月21日 (日) 12:06 (UTC)[返信]


迅速な対応、ありがとうございます。
お礼の代わりと言ってはなんですが、会津藩士について少々加筆させていただきました。
Carbucketty 2008年12月21日 (日) 12:38 (UTC)[返信]

会津藩の孫六について[編集]

本文中の「後に会津藩では、孫市や孫六の武名を評価し雑賀衆の一族を召抱え、その子孫達に雑賀孫六や雑賀孫六郎という名を名乗らせた。」という部分ですが、 会津若松市立図書館所蔵の「諸士系譜」原本によると、雑賀衆の末裔とされる「一瀬家」は代々「孫六や孫六郎」ではなく、本名とは別に「孫市や孫市郎」と名乗 っていたようです。(名乗っていない代もあるので正確には代々ではないですが) 「孫六や孫六郎と名乗らせた」という文章を、様々なサイトや雑賀孫六に関する書籍などで目にしますが、おそらく司馬遼太郎氏の「尻喰らえ孫市」を参考にされているのではないでしょうか。 「諸士系譜」は江戸時代末期に藩主導の下編纂されたものですので、信用できる文献だと思われます。 ちなみに幕末の雑賀孫六郎は、元の名を一瀬紀一郎重村といい、戊辰戦争時、先祖の一族の名を借り雑賀孫六郎と名乗ったようです。(幕末の密使 会津藩士雑賀孫六郎と蝦夷地 好川之範著 参照) 突然の長文失礼致しました。--Samurai damashii 2009年11月25日 (水) 13:16 (UTC)[返信]