ノート:野村芳国 (2代目)
「野村芳国」について
[編集]『麻布美術館研究紀要』No.1に「野村芳国伝」があるのを知りました。これは子孫の野村家の人々にも取材したもので、従来から各書で説明されてきた「野村芳国」の経歴等について訂正がなされています。すなわち『浮世絵師伝』の記述は初代芳国(俗名粂蔵)と二代目芳国(俗名常松のちに与七)の二人を混同したものであり、「京坂名所図絵」を描いた二代目芳国は国芳の門人でも芳梅の門人でもなく初代芳国に絵の師事を受けた。一陽亭・笑翁と号したのも二代目芳国ではなく初代芳国、また二代目芳国の墓所も西光寺ではなくもと西大谷(大谷本廟)でした。『原色浮世絵大百科事典』第二巻101頁の「芳国」の記述も基本『浮世絵師伝』を受け継いだものであり、今後これも参考文献として使うべきではないと考えます。--ものぐさたろう(会話) 2018年12月16日 (日) 01:45 (UTC)
- Tgftn614です。ご指摘および修正有難うございます。初代の野村芳国の師を「歌川芳信」とされておりますが、この芳信は江戸の絵師なので、大阪の絵師野村芳国の師は「一瓢斎芳信」という大阪の絵師の方ではないでしょうか?--Tgftn614(会話) 2018年12月16日 (日) 05:13 (UTC)
- ご指摘ありがとうございます。今一度「野村芳国伝」を確認したところ、たしかに一瓢斎芳信のようです。訂正しておきます。-ものぐさたろう(会話) 2018年12月16日 (日) 06:11 (UTC)
実川延若(初代)の追善の絵
[編集]「大坂坂町慈安寺妙見堂之図」(早稲田大学演劇博物館所蔵)についてお尋ねします。野村芳国 (2代目)#作品欄で標題の役者肖像をいちばん下に移しました。このセットは国立国会図書館に10点揃いの風景画として掲載があります。それしか文献が見つからず非常に弱い根拠なのですが、確かに欄外の記述は11枚とも出版届明治18年8月28日ながら、延若の命日は9月半ばすぎで、事実とあいません。
また早稲田大学で実物を拝見しておりませんが、データベースで「豊川姓」を記したとあるようで、絵を印刷したものの潰れて読めませんでした。誤解かもしれませんので、ご教示いただけるとありがたいです。 なお、過失を訂正しなければなりません。この揃いのうち風景画はいずれも芳国名であって、與七名義はあくまでも役所への届なのに誤記しました。編集履歴を乱して申し訳ないです。
ところで細かな点で恐縮ながら、アンカーを置いた「#京坂名所図会」の半角イゲタ「#」を伏せておいでのところ、ふたたび表示させました。同じ記事内でリンクしたことを示すため残してはいかがでしょうか。通常のリンクですと別ページ・別プロジェクトへ飛び、区別すると便利かと考えます。ただ、印刷して紙面にイゲタが出る点が目障りでしたら、もどしてください。非常に興味深い記事のご執筆に感謝します。--Omotecho(会話) 2020年7月16日 (木) 09:52 (UTC)
- 推測ですが絵の枠外に「同年九月出板」とあり、「御届」は八月末だが初代實川延若没後に「大坂坂町慈安寺妙見堂之図」も加えて版行したのではないでしょうか。それ以上の事はわかりません。早稲田大学演劇博物館のデータベースにある「大坂坂町慈安寺妙見堂之図」には「豊川」とは落款にも無いようです。「豊川」とあるのは違う絵師となにか混同しているものと見られます。それとお尋ねの件ではありませんが、初代延若についての記述は過剰かと思われます。二代目野村芳国の記事なのに、なぜ初代延若について少なからぬ量の説明を加えるのか…しかもここから文章をそのまま転載されているようですが、著作権侵害を疑われるかもしれず、この部分は削除したほうが無難かと思います。--ものぐさたろう(会話) 2020年7月17日 (金) 00:23 (UTC)