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ノート:辻番/削除

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このページは辻番の過去の版について削除依頼の議論内容を保存した物です。

現在の記事へのご意見はノート:辻番にて行ってください。

下記の議論により、このページは削除されました。このノートを編集/削除しないようお願いします。

Wikipedia:削除依頼 2004年7月[編集]

*辻番 - ノート:辻番[編集]

ノート[編集]

初版は、最初の段落の2文と次の1文はgoo辞書の「辻番」に同じ順で、よく似た3文があるようです。


また、最初の1文を除いた第2段落の文章は、6文ありますが、第2文と第3文を除いたものは、こちらのページに[1]同じような内容の解説があります。但し、事実の取捨選択、配列、表現いずれをとっても少しづつ違うものです。外部サイトは特定の文献を参照したことを示唆しているので、あるいはその文献の共通性のみに由来するものかとも思いましたが、そういうケースがあることを知ることも最近検討している著作権問題の文脈ではかなり意味があることのように思うので、念のため記しておくことにします。

以上とりあえず報告まで。Tomos 2004年7月23日 (金) 00:08 (UTC)[返信]


「特定の文献」の共通性のみに由来するもの、ということですが、私が、『江戸の町かど』を読んだ可能性があるということですね。あれは三次以降の資料ですよ。その信憑性がどの程度かは後述するとして、まずgoo の大辞林に書かれていることから。

武家地の辻々には武家によって管理される辻番があり、町方では各町の自治による自身番がありました。goo の大辞林では、辻番について「江戸市中の辻々に」と書いています。ふつう「市中」は町人の居住地をいいます。たとえばこうです。

江戸の南北町奉行配下には「市中掛」取締の与力六騎と十二人の同心がいました。町奉行は、町役人、町名主を通じて、江戸市中に町触れを発していました。

さて「忠臣蔵新聞」サイトです。これは見たことがあります。でも、あそこに書いてあるようなことは、私は参考にはしません。
辻番の説明は、『江戸の町かど』などを参考に書かれたとしましょう。辻番が「寛永6(1629)年に幕府の要請で武家屋敷に設置された」というのは間違いではありません。しかし、そこに書かれた人数や年齢制限などは、はじめからあったものではないんです。

「大猷院殿御實紀」(たいゆういんでんごじっき/家光の代)巻十三、寛永六年三月十八日条に、こうあります。

去年以来府内街巷に於てみだりに往還の路人を刃傷する者多し 因て毎處に番所を置て守らしむ これ辻番の起本なり

「厳有院殿御實紀」(げんゆういんでんごじっき/家綱の代)巻十七、萬治二年三月廿九日条には、人数について書かれています。

この月辻番の條制を下さるヽは晝は二人 夜は四人をこたりなく守るべし‥‥

この原出典は「武家厳制録」となっています。

ここで「忠臣蔵新聞」サイトに書いてある、番人の人数と年齢制限を、Wikipedia 辻番に書いたことと比べてみてください。
Wikipedia 辻番には、天和三年の辻番強化として、私は下のように書きました。出典は「常憲院殿御實紀」(じょうけんいんでんごじっき/綱吉の代)巻七、に書かれたことで、その原出典は、「幕府日記」「大成令」「令條記」となっています。

一万石から一万九千石までは昼三人、夜五人。二万石以上は昼四人、夜六人。組合辻番では昼二人、夜四人となった。番人は、20歳から60歳までの健康な者という条件もある

上に書いたことは、「忠臣蔵新聞」では「昼は4人で、夜6人」となっていますね。

「忠臣蔵新聞」の記述は、寛永六年から天和三年まで、半世紀にわたる将軍三代をいっきに飛んで、番人の人数は二万石以上の家が管理する辻番に適用された数字しか書かれていません。

「常憲院殿御實紀」天和三年の辻番強化に関する記事には年齢制限や人数以外にも、こまごまとしたことが書かれています。この辻番強化は「お七火事」の直後に出されたものです。

いかがでしょうか。百楽天 2004年7月23日 (金) 11:51 (UTC)[返信]

詳細なご意見ありがとうございます。辻番の人数については、だいぶ記述内容が違うな、ということは一見して明らかでしたので僕も気になっていました。ここでも例によって、百楽天さんの知見が活かされたというところでしょうか。
ただ、他の件と同様、これが全くの偶然によって生じた類似なのかどうかがわかりませんでしたので、上記の通りとりあえず書き記しました。
例えば、百楽天さんがとりあえず外部サイトの文章を読んだことはあったが、自分はより正しい情報を記述することに努めた、というような形で作業されていたのであれば、結果として外部サイトの文章の創作的な表現と似た文章が出来た場合には著作権侵害になってしまうかと思います。
で、ここで創作的な表現というのが何を意味するかというと、文章の場合には、独創性などがあるということではなくて、単に書き手の感情や思想や評価や個性などが何ら形で反映されているもの、ということになると理解しています。
百楽天さんのお話から察するに、外部サイトはどちらも不適切な表現や事実の取捨選択を行っている部分がある、ということはいえそうですが、では外部サイトとの類似している点がないと言えるかというと、やはり似ている点があるように思いませんか? また、その類似点は、誰が書いても必ずこうなるから個性の反映とはとれないし、著作権で保護されるようなものではない、とも言えないように思いませんか?
百楽天さんの議論を読んでいると、他人の著作物から表現や構成や話題の取捨選択などを借用しても、その著作物よりも優れた知見を展開できている場合には著作権侵害にならない、というような議論のようにも思えるのですが、そうした類似性が残ってしまったらどんなに独創性が発揮されているとしても、あるいは結論なり、ディテールへの配慮が優れているとしても、結局は著作権侵害になってしまうかと思います。
というところでお返事になりますでしょうか。Tomos 2004年7月23日 (金) 22:12 (UTC)[返信]

「武家地の辻々に警備のために設けられた番所」と私は書きました。goo では「幕府や大名・旗本が」としています。 「自警」と「警備」は同じとみられてもいいでしょう。
私は定義では、設置された場所、自身番との違いだけを書いています。というのは旗本(将軍に拝謁できる家で万石以下)では、一つの家で管理するのではなく、近所の複数の家による組合辻番だったからです。 「忠臣蔵新聞」に書かれたことを、今もう一度見ました。

大名と旗本が共同設置した組合辻番がありました

この「忠臣蔵新聞」の記述は間違いです。

あと、今まで気づきませんでしたが、私が書いたものには公儀辻番がぬけていました。ということで、他のサイトでは辻番について書いてあるものをさがしたら、出てくる出てくる。 杉浦日向子さんの[2]とか、「歴史の館」の[3]ページとか。
そのなかでも、[4]はしっかりしています。といっても、私はこのネタ本を見ていますが。
でもこのページを見て、享保になって町人に請け負わせたことで失敗した組合辻番や寛永寺辻番のことを書き忘れていたのに気づきました。百楽天 2004年7月24日 (土) 10:12 (UTC)[返信]

お返事ありがとうございます。以前別のページでもご紹介したのですが、議論の役に立つのではないかと思われるこの最高裁判例[5]についてもう一度書いてみます。

ある作品を元に別の作品を制作したとして、仮に2つの作品の間で表現している思想や感情が決定的に違っていても、元になった作品の表現の本質的な特徴がそれを改変した作品から感じ取れる場合には、それで著作権侵害になってしまいます。

そこで、問題は百楽天さんの文章がどの程度外部サイトには欠けている知見を盛り込んだものであっても、外部サイトのページと表現が似ているのであれば、それが偶然の一致であるとか、創作性の認められない表現についてのみ似ているとか、何かその他特殊な事情による類似であるとかの理由がなければ、著作権侵害になってしまうのではないか、というのが僕の懸念です。

これまでに頂いたご意見は、外部サイトには欠けている知見が盛り込まれていて、その結果こちらの記事の方がより正確である、という主旨だと思います。また、そのように異なる知見を表現している以上、特にこの件について詳しい知識を持っている方にとっては、両者が全く異なる思想を表現している文章であり、全然似ていないように感じる、ということもあるかと思います。

ですが、そのように表現されている知見、思想が非常に違っているのは、上記の判例も同じです。作品全体としてみた場合には、2つの作品は全然違うものに見えます。ですが、表現されている思想の違いがありつつも、具体的に用いられている表現は似ている部分があるので、著作権侵害が認められてしまったというのがこの判例なので、それを考えると、同じことがこの記事についてもあてはまってしまうのではないかと心配します。

ということで、お返事になっていますでしょうか? もしかすると百楽天さんはそうしたことはご承知の上で、何か違う理由で上のようなお返事を下さっているのかも知れないのですが。。 Tomos 2004年7月25日 (日) 21:31 (UTC)[返信]

「辻番」については、私は徹底的に調べました。よく忠臣蔵ものの本では、

辻番は生きた親仁の捨どころ

という川柳などを引いて、「赤穂浪士に恐れをなして何もできなかった」などと書いているものがほとんどです。
享保以降、町人に請け負わせた辻番(組合辻番)ならばそうもいえるでしょう。もっとひどいのは「番太」と書いてあったり。番太というのは、町の木戸番のことなので、そのように書くくらいだから、辻番と自身番の違いさえわかっていない。

私は、吉良屋敷夜討事件のあった300年以上も昔の、「本所吉良屋敷周辺図」を独自の調査によって作っています。そのなかには、周囲の辻番もプロットしています。

幕末の江戸切絵図には辻番の位置にシンボル(□)がありますが、江戸中期の絵図には載っていません。
私が作った「本所吉良屋敷周辺図」のベースは、事件の年の遠近道印作の江戸大絵図(復刻版)で、これは私のもっている江戸絵図9枚のうちの一枚。これの原図は江戸東京博物館4階の収蔵庫にあり、その前後の何枚かも、同じところに保管されています(一般公開はされていない)。
博物館の学芸員の方が私の書いたものを読んで下さっていたこともあり、復刻されていないものについても調べることができました。
広尾の都立図書館には、何枚もの江戸絵図があります。さらに、幕府普請方の資料となっていた「御府内場末沿革図書」という、江戸場末の土地土地の武家屋敷などが時代によってどのように変化していったかを、極彩色の絵図と文で説明しているものもあります(東京都公文書館)。

これらに加えて「寛政重修諸家譜」という史料も使いました。それぞれの武家の来歴を調べ、各資料の突合せによって、当時の「地図」を作っていったのです。

「本所吉良屋敷周辺図」作成にあたり、さらに欠かせなかったのが、辻番の規定が時代とともにどう変わっていったのか、の調査です。だから、天和三年にだされた辻番強化についてもわかっていたのです。

「本所吉良屋敷周辺図」は、もちろん連載のなかに載せましたが、平成11年の12月に、JR両国駅の駅長さんからの依頼で版下をお貸しして、JR両国駅・都営浅草線の泉岳寺駅・浅草橋駅にて大量に配布されました。

このような経緯があるので、gooの辞書や、指摘されたようなサイトなど、見る必要などありません。だから出典をあげることができるのです。

論議はいいとしても、こういったものまで安易に削除依頼に出されては、正直言って何も書けなくなってきます。百楽天 2004年7月29日 (木) 17:10 (UTC)[返信]


Tomosさんへ  私を書き込み禁止にしたO歯科大の学生は、2ちゃんねるで吊るし上げられてWikipedia から去ったようですね。  私は Wikipedia のパスワードなどは、とっくに忘れてしまいました。  なので、正規の方法での書き込みができません。この点はおゆるしを。  Tomosさんは新聞に掲載されたことがあるので、どのような方かは存じてます。

 私にとっては「悪夢」です。大辞林に似た文章だなど、言いがかりばかり。試しに、大辞林と広辞苑の説明文を100ほども比べてみてください。

 あなたの論でいけば、Wikipedia 内には「削除依頼」できる記事はいくらでもあります。  こんなものを何年も残しておくようなことであれば、私にも考えがあります。 百楽天