ノート:趙範

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趙範に関してこんな記事があります。


趙範は『演義』では趙雲と同族であり、常山郡真定の出身としている。
もし、趙範が桂陽太守に赴任する時には当然一族を故郷に残しており、
仮に彼が北方の人なら、同族とされる趙雲と結縁したことが曹操に知られると、
その一族が危険の憂目に遭うことは必然である。つまり、趙範は南方の人の可能性が高い。
後漢書』「南蛮伝」の記述では、
「交阯国(現在のベトナム)の西に噉人の国がある。
初めての子供が生まれると、直ちに殺し潰して食べてしまう。
それは、後に生まれる弟のためだと言っている。
味の美味な人肉はその君主に献上し、君主は喜んでその父親に褒美を賜る。
また、妻を娶った時に美人であればその兄に譲る。
現在の烏滸(チャム族)の人がこれに該当する」、と。
趙範自身が烏滸の出身か混血を受けたとは思えないが、その影響を受けた文化圏の
出身であったとは思われる。
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