ノート:藤原経清

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藤原経清について、①亘理権夫と称した。とありますが本来官職は、権夫とどちらが正当でしょうか。②それから宮城県亘理町には、国指定の三十三間堂官衙遺跡があり、1966年(昭和41年)東北大学と宮城県教育委員会の調査が行われ、建立者として経清の関与が有力視されました。証拠が全く無いとの断定は、遺跡がありますので、地元の郷土史研究者といたしましてSuifuさんの表現でも宜しいのかと存じます。いずれにいたしましても、中世史は、難しいですね。papamaruchan22 2006年9月19日 (火) 09:54 (UTC)[返信]

大夫です。少なくとも官職において太夫は用いられることはありません。そもそも、読みが異なります。大夫は修理大夫など官名としての大夫ならだいぶと読みますが、五位にして散位の者を指す場合、たいふです。--Suifu 2006年9月19日 (火) 10:14 (UTC)[返信]

私が「信頼の置ける史料は存在しない」と表現したのは、「経清が亘理地方の実質上の領主であったことや五位であったこと」の証拠が全くないという意味ではありません。文章を読んでいただければお分かりのとおり、「陸奥権守従七位下に叙せられ亘理権大夫と称したこと」の証拠が一級史料にないという意味です。
私の編集履歴を追って頂ければお分かりのとおり、『造興福寺記』への言及を追加したのは私です。これによれば一級史料で五位であったことが確認できるのに、従七位下であった(そりゃ五位の前にはそうだったかもしれませんが)とか、同時代史料にない陸奥権守であったとの伝承などは信頼の置ける史料とは言えないでしょう。亘理権大夫に至ってはそのような通称は(個人的には)ありえると思いますが学界では後世の俗称と見なされていますよね?(そもそも亘理という郡名に大夫という五位散位を示す通称と更に仮にの意味の権をつけるなんて無茶な称号です)
郷土史研究者でしたら釈迦に説法かもしれませんが、一昔前までは経清非藤原説や経歴詐称説までがありました。『造興福寺記』の研究により少なくとも摂関家が認めた藤原連枝であったことと五位であったことが確認できたのですから、研究はまだまだ途上です。当時の郡司制の実態もよく分かっていないのに、軽々に亘理郡司だとか陸奥権守だとかの推測は差し控えておきたいと思っています。奥州藤原氏での私の編集も同様のスタンスによるものです。--ろう(Law soma) 2006年9月20日 (水) 00:42 (UTC)[返信]
ろうsomaさんの主旨理解致しました。また造興福寺記の件深い敬意を表します。表題に系図以外の証拠と書いてあったので申し上げさせていただいた次第でした、他意はございません。系図も信憑性に問題がないとはいえませんが中世になりますと、まして滅亡した氏姓だと系図に頼るのも手がかりとして重要だと思うところです。それから経清の戦死場所ですが、(ろうさんの編集ではないのですがご意見ください。)衣川ではなく厨川柵と理解していいでしょうか(衣川説が記載あり)?小松柵・鳥海柵で敗退し厨川で虜になり頼義の面前で斬首といわれていますが衣川で死んだのでしょうか。papamaruchan22 2006年9月20日 (水) 02:27 (UTC)[返信]
ご理解いただきありがとうございます。私が普通に陸奥話記を読んだ限りでは「厨川で虜になり頼義の面前で斬首」ですね。原文は「於是、生虜經清。」ですから「是」は直近の話題の舞台である「厨川」と解するのが妥当かと。ただ「経清は衣川の戦いで戦死したという説もある。」となっているので、そんな説がないと否定するだけの材料を持っていないので、そのままにしております。
余談ですが私は安東氏に興味を持っていますので、系図が如何に信用をおけないものかということを身にしみて感じております。--ろう(Law soma) 2006年9月20日 (水) 07:30 (UTC)[返信]
安東氏は確かに大変ですね、藤と東の呼称変更時期も往時は、あまり気にせず名乗っていたようですし、、、。さて衣川戦死説ですが否定も肯定も出来ないのなら辞典として書き込み不適なのでここの部分は、載せなくても良いと判断していいのではと思料します。それから亘理権大夫という呼称は、亘理に居たからそう名乗ったという事のみで(隣郡の伊具十郎=平永衡や相馬氏も)もよろしいのではと考えます。一級史料がないのでなんとも困るのですが、名乗った証拠が無い事を辞典上で無いと強調も出来ないのかとおもいます。なにしろ1000年の時空をへているのですから。papamaruchan22 2006年9月21日 (木) 11:36 (UTC)[返信]
もう一点陸奥話記も造興福寺記も一級資料だと思われますので官職は確認出来ませんが、呼称についての不在説は強調しないでおきたいと存じます。papamaruchan22 2006年9月22日 (金) 09:29 (UTC)[返信]
はじめまして、Papamaruchan22様にいろいろご指摘いただきまして編集し直しいたしました。参考文献として日本大戦争を取り上げたのは衣川で討死したというソースを示してください、という意見が出るものと思って記載いたしました。現在手元に本がないため、原氏がどういった文献または現地調査などをしてそういう結論で書かれたのか不明ですが、大河ドラマと違って脚色する必要はないので参考文献として残したいです。今のままだと藤原経清の参考文献ですので、異説のソースとなるように編集し直しました。大分古い書籍ですが、大きい図書館ですと、置いているかもしれません。ご興味がおありでしたら是非お読みください。ところで藤原泰衡征伐の許可を朝廷に願い出ても失敗したため、大江広元が奥州藤原氏は源家の家人に当たるから朝廷の許可は不要という理屈で出兵されましたが、経清の時代どうだったのでしょうね。頼義は家人である(と思い込んでいた?)経清が符を使ったため補給に苦しみ苦戦したわけですが、経清はたまたま陸奥に着任した頼義の旗下から安倍側に走ったため苦戦したということでしょうか?信頼性の高いと見られる資料をあまり疑ってはいけないかもしれませんが、歴史の勝者によって歴史が書かれることを考えると泰衡は源家の家人、清衡は義家が奥州の覇者にした、経清は家人にもかかわらず裏切ったため残酷な方法で処刑したという風に当時書かれたのかもしれません。主君は御家人に恐れられなければならないという必然もありましたし。ひょっとすると衣川の柵が陥落した際に捕らえられて、その後厨川の柵陥落後に処刑されたということもあるかもしれませんね。ただ研究者でしたら疑いの心を持って研究するところですが、資料もないところから新説を作ってはいけないのでここだけの話にいたします。--Tiyoringo 2006年10月7日 (土) 05:59 (UTC)[返信]

インデント戻します。呼称の不在は多くの歴史学者が指摘するものですので書いておいた方がいいと考えます。また、「権」は「官」名について現代風に言うところの「○○代理」とか「○○心得」、「臨時○○」みたいに使われた用語であり、五位以上の「位」につくものではありません。正式名称としては確実にありえないものです。「通称」としては個人的にはあり得ると思いますが、やっぱりイレギュラーだと思います。(現代風に言って、「知事職務代理者」はあり得るが「三役代理」なんてありえない)--ろう(Law soma) 2006年9月26日 (火) 00:17 (UTC)[返信]

了解です。基本的に本件は、Lawさんのさんおっしゃるとおりです、も仮のとか補助とかの意味は、云われるまでもなく理解してます。微調整の文章についても表現に工夫なさっておられるのが文面からうけとれます。ただ亘理地方においては、権大夫と名乗っていたことについては、後世信じられており、江戸時代の合戦絵巻(前九年役の内奥州衣川大合戦-歌川芳員画)等にもえがかれている事もあり当地の郷土史料面でも「呼称の不在」で片ずれられてしまうのが良しとしないのです。中世の呼称が現代風に言ってもありえなく無いのです。幹事長代理も町長代理も三役代理も現に時々ありえます、臨時だから官報に載らないときもあります。私もある団体で理事長不在時、代行を務めましたが呼称は不在のままでした。現場にその職務者がいないと、特に中世の都から遠く離れた地方では、「われこそは権の○○である」と僭称してもおかしくないと思料します。そんなわけで権大夫(権夫という史料もありこうなると完全に固有名詞)の呼称を特に掘り下げて無いと言及しなくても良いと思っているのですが、大筋百科事典解説文として、ろうさんのこの文章で非常にわかり易いとは思います。papamaruchan22 2006年9月26日 (火) 02:26 (UTC)[返信]

NHKの大河ドラマについて言及ありますが。ドラマにかいてあるから史実が云々というのは、いかがかとおもいます。また参考文献として最後に括弧書きで以下参照とありますが。どの部分の参考文献でしょうかすべての事柄を示すのではないとしたら、もう少し工夫がいると思料致します。papamaruchan22 2006年10月7日 (土) 04:38 (UTC)[返信]

大河ドラマは必ずしも史実を重視するものではないので記述を取り消しました。日本大戦争は関連書籍に移動しましたが、異説のソースは何だと指摘された場合だけ簡潔に下記関連書籍「日本大戦争」としようと思います。--Tiyoringo 2006年10月7日 (土) 05:59 (UTC)[返信]

経清衣川戦死説について[編集]

前九年の役の合戦記録である陸奥話記の厨川での詳細な鋸引きの記述を覆す「日本大戦争」以外の文献も史料をどうしても発見できません。日本大戦争も図書館にもありませんでした。スポーツ新聞社の本がどうも、という訳ではないのですが。陸奥話記のいわゆる原典の記述を覆すのには、原典とか発掘資料とか必要と存じます。衣川で戦死したとすると、陸奥話記の鳥海柵の出来事の「官軍未到之前宗任経清等、棄城走保厨川柵」の記述が全くおかしいことになります。衣川から逃げて厨川の間にワンセクション無いのなら戦死したのてはとも考えてもと思いましたが「話記」には鳥海柵の項に経清の名がまた出でいます、生存してるのです。で、異説として採り上げるほど貴重な説とも思え無くなってます。すみませんが抹消していいですか。papamaruchan22 2006年11月7日 (火) 08:17 (UTC)[返信]

異説から大幅にトーンダウンして関連書籍の欄に記述することはどうだろうと思いましたが、小説の異聞といった形ではバランスを欠くので抹消が適当な気がいたします。書籍自体は関連書籍として存続でよいと思います。陸奥話紀は、読んだことがなかったので知らなかったのですが、先に戦死して死後処刑されたということもなさそうですね。「汝先祖予の家僕」発言は、義家の発言だったのですね。てっきり頼義だったかと思っておりました。吾妻鏡あたりだと、北条氏に不利な記述は隠されているのでは、など言われますが、真実を曲げる必然性もなさそうですし。
日本大戦争は図書館にはありませんでしたか、以前読んだあとまた読みたくなってオークションに出品されないか気にしていたところ、たまたま古本屋で全巻ではなかったのですが、ほぼ全巻手に入れることができましたが。読み物として考えた場合は興味深いものとなるかもしれません。東京スポーツ連載というと大分ガセネタトップ記事が有名ですが小説自体としては嘘八百ではない感じは受けています。同時期に連載されているもので、NHK大河ドラマの主人公の艶物はまゆつばものでしたが。--Tiyoringo 2006年11月7日 (火) 12:23 (UTC)[返信]
Tiyoringo様、早速ご返事ありがとうございます。それからおおせのとおり「将軍召シ見テ曰ク」ですから頼義ですね義家も同席してたでしようが、、、。やわらかなご指摘サジェスチョン多謝とする所であります。papamaruchan22 2006年11月9日 (木) 04:21 (UTC)[返信]

原典の記述追加表記[編集]

大夫の職位の補助としての尊卑分脈の「権大夫」という記述をあいまいに出来ないので工夫しました。「権大夫」という職が存在しないと言い切れませんので。付言すれば清衡も権大夫の職についてます。出典(吉川弘文館版)・国史大系尊卑分脈第2編・ISBN4-642-00035-6papamaruchan22 2006年11月11日 (土) 11:52 (UTC)[返信]

平安末期の在庁官人クラスの武士達には「大夫」、「権大夫」を称する人が少なからずいるようです。律令官制ではそのような職は知られていませんが、在庁官人の職として存在したのかも知れません。--怪蘇 2006年11月16日 (木) 04:57 (UTC)[返信]

在庁官人(いわゆる在庁)の中には、千葉介や三浦介など関東の八介に代表される、地位に応じた呼称を称する例があったことは事実。衛門府では従五位下にありながら官位相当の左衛門佐ではなく左衛門尉に甘んじている者を左衛門大夫といいますが、それを考えると正式な官名ではなく名乗りであったといえるでしょう。

亘理権大夫は、五位にありながら国司ではなく、郡司の長官 郡大領にあった藤原頼遠が称したもの。経清は、父の生前、従七位下でしたが、母の縁者 中納言兼皇宮権大夫藤原経輔の計らいもあり、父の位に同じ従五位下に叙せられ、亘理権大夫をついだのではないかと。--海衛士 2008年5月30日 (金) 05:52 (UTC)[返信]

それは結構可能性高そうですね。目から鱗な思いです。しかしながら出典がないものでしょうかね。--ろう(Law soma) D C 2008年5月31日 (土) 13:34 (UTC)[返信]
  • papamaruchan22です。Law somaさん、お久しぶりです。日頃の管理者としてのご活躍、ご苦労さまです。海衛士さん、ご無沙汰失礼致しました。私は、近頃は航空機のプロジェクトに関わり熱い話し合いの中にいました。たまたま{目から鱗}の文字が目に入りましたので参上しました。さて、そうですねぇ皇宮権大夫藤原経輔という名が存在しますねぇ。この「皇宮権大夫」ってなんなのでしょうね、出典としては{権大夫が官名か}について、昭和50年発刊の「亘理町史」(東北大学教授・佐々 久{ささひさし}監修)の96頁の経清の項に権大夫は官名である。とありまして、さらに、冒頭で述べたように国史大系尊卑分脈に亘理権大夫と在ります(併記して亘権守)。この「亘」は、亘理のことです。いにしえには、曰とか、曰理とか亘で亘理とも呼ばせていたんですね。清衡の肩書きにも{権大夫}と成ってます。これには地名はありません。北道さんのホームページ[[1]]はこの亘(??権守)が判読出来ないとしてますが理が抜けているので何の事か判読不明とおっしゃっているのです「??」の部分は「亘」なのです。話を戻します、故佐々久教授が官名について異を唱えてないので、大夫の役職の権(副)という様に考えられ無い事もないです。尊卑分脈以外の一次出典を探すのはなかなか大変でしょうね。律令に何かあればいいですね。以上ご参考まで。papamaruchan22 2008年6月2日 (月) 12:15 (UTC)[返信]

藤原経輔は正二位権中納言中宮権大夫でした。。論証目的ではなく参考意見として書いたので出典は明記しませんでしたが、調べがつくようでしたら改めてこちらにご報告致します。ちなみに権は副官としてのみならず、定員外の場合、同等の処遇をするために与えた(許した)官名のようです。ちなみに、大夫の場合、五位の者の敬称であったため、必ずしも官名に限定した呼称とはいい難い部分もありますよね。亘理に住む定員外または散位の大夫という意味だと思いますが。。--海衛士 2008年6月7日 (土) 16:26 (UTC)[返信]

  • そうですねぇ、権大夫が官名であると断定している書籍をお示ししたかったわけでありましてね。亘理地方を統括する役人の呼称として、名乗っていたのではないのかと思っております。尊卑分脈で{亘権守}と{亘理権大夫}を併記してますね。なぜ二つ記載してるのか疑問提起している事例を私個人として探せないのでのでなんともいえないのですが、資料が少ない中ではありますがいろいろ考えますと奥が深そうです。何しろこの経清が藤原の始祖として再び世情に注目され始めましたのは、大河ドラマの構想を練る過程で作家の方々が亘理に取材に来てからでして、それ以前は、当地で歴史好きの間で知られていました。当地での殿様といいますと伊達氏でして、藤原氏以前の遺構は極めて少ないのが現状です。即ち遺跡から類推される大規模の往時の伽藍も藤原滅亡後、頼朝の幕僚の武石(千葉)氏の占領軍により徹底的に跡形も無く抹殺され、陸奥話記他に経清の名前だけ残った状態になりました。で、はがゆいのですがなんとも結論がだせません。お話できて幸甚です。papamaruchan22 2008年6月8日 (日) 03:43 (UTC)[返信]

経清自体、朝廷武官たる鎮守府将軍の斬決権により、朝敵として葬られた人物。鎌倉時代の武将がわざわざ破壊したというより、源氏清原の代から葬られたか、そもそもそれほどの史跡を残さなかったかということもありえます。。 ちなみに奥州には藤原氏の流れを称する家々があろうと思いますし、津軽氏の前進、大浦氏も甲斐源氏説の他に奥州藤原説がありますね。もちろん、可能性は低いですが。ちなみに、藤原を受け継ぐ家系の者もけして奥州藤原そのものの流れではなく、あくまで家人の家系ながら主君の姓を授けられたというケースもあるようですね。--海衛士 2008年6月8日 (日) 03:54 (UTC)[返信]

  • どうも素早いご返事有難うございます。papamaruchan22です。報告楽しみにしてます。さて、遺跡は国指定の三十三間堂官衙遺跡があり、1966年(昭和41年)東北大学と宮城県教育委員会の調査が行われ、建立者として経清の関与が有力視されました。で、このノートの一番初めの文章で当時のSuifuさんのご意見に賛成したのでした。史跡を残さなかったのではなく、かなりの規模の官衙が存在してましてね。ただ有名ではないです徹底的に跡形がないので観光的価値が無いからなんでしょうね。海街道筋に北上した武石軍に破壊されたのはほぼ間違いないのではと思います。当然清衡の父なので奥州藤原氏の始祖ですね。papamaruchan22 2008年6月8日 (日) 04:19 (UTC)[返信]

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