ノート:藤原秀郷

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略歴の段つじつま?[編集]

文面より見ますと下野国で勢力を振るい流罪で(どこに)また下野に来たように受け取れます。が、秀郷は初め京で官職に在りしとき、武人の常で摂関政治の惰性を嘆き「直諌の罪」で官職を辞し下野国に配流となったが配流先で人望を集め朝廷も罪を減じ下野の兵の指揮官としていたのではと理解してますが。papamaruchan22 2006年10月19日 (木) 10:53 (UTC)どなたかよろしく加筆ください。[返信]

  • 追録史料調べました。秀郷は、近江の国「田原荘司」として田原に居りましたので田原藤太・(俵)と称したようです。papamaruchan22 2006年10月19日 (木) 12:12 (UTC)下野の押領使になったのは、天慶2年12月従五位下に叙せられたときらしいのですが。[返信]

私は違和感を感じませんでした。在京武士であろうと別に先祖伝来の地盤を地方に持っているものは多く、三代にわたって下野国衙に勤めていることからも下野で勢力を振るっていたことを否定する材料はないと思います。武士が摂関政治に失望するという筋書きは、特に江戸時代に幕府政治の正当化を図るために武士出身の学者等により積極的に語られた説であり、近年では懐疑的な意見が学界でも多くなっています。地域の伝承も、その筋書きに影響されたものが多いため、取捨選択の必要があり、なかなか判断は難しいですが、「本当の血筋は兎も角」社会的に藤原氏の一族として京藤原氏に認められていた「一門」であることは間違いなく、また下野に代々地盤を持っていた蓋然性も高いので今の書きぶりで特に異論はありません。あえて言えば「非藤原説」も書き加えても良いと思います。(私は「真藤原説」ですが)--ろう(Law soma) 2006年10月20日 (金) 01:12 (UTC)[返信]

いつも歴史のウィキをみてます。ろう様の在京武士であり、真藤原であるとすることも妥当と思います。違和感は、Papamaruchan様の述べてるように本当に流罪になったのかという疑問と、追討官符を受けて実行するのが警備の長の押領使なのに実行されるのが流罪になったほうなので927年に本当にその地位にあったのかなと違和感をかんじます。追討された様子もないのでそのあたりをどの様に記述すればいいのかなと思いました。202.53.209.136 2006年10月20日 (金) 07:29 (UTC)[返信]

papamaruchan22さんへ。で、あるならば「~とされている。」とか「通説では~と言われている。」レベルの書きぶりに修正し、疑問を抱いている歴史学者がいるのであれば、「~の観点から一部歴史学者から疑問が出されている。」など加筆すればいいと思います。--ろう(Law soma) 2006年10月20日 (金) 07:51 (UTC)[返信]
ちなみに私は在京武士とは認識していません。下野土着だが、任官に際し上京した武士と考えています。Papamaruchanさんも、上記質問では「本当に流罪になったのかという疑問」など書いておりません。--ろう(Law soma) 2006年10月20日 (金) 08:05 (UTC)[返信]

私も真藤原説を採ります。秀郷の父も従四位下まで昇っています。秀郷の代で藤原一門の資格を得たのなら、その父は非藤原であり従四位に至るのは困難でしょう。皇別氏族である下毛野氏説が正しいとしても、かなり古い時代に皇室より別れた氏族であり、平安時代当時に四位などはあり得ないと思うのです。まぁ、秀郷の専門家ではないので、より詳細な考証資料が欲しいところですが。--海衛士 2006年10月20日 (金) 08:32 (UTC)[返信]

(ソース希望)遙任だったのですか?不勉強にして初耳です。秀郷の史料での初出は『日本紀略』の「延喜十六年八月十二日条」で、「下野国言。罪人藤原秀郷。同兼有。高郷。興貞等十八人。重仰国宰。随其罪科。各令配流之由。重下知之。」とある記事です。確かにこの解釈で下野国司が自国に預かっている秀郷について言上しているのだから本領は下野以外だとする説があります。しかし『尊卑分脈』によれば、秀郷の曾祖父藤成が下野在住の頃に下野史生鳥取業俊の女との間に豊沢を儲け、豊沢と下野史生鳥取豊後の女との間に村尾が生まれ、村尾と下野大掾鹿島の女との間に秀郷が生まれたとなっており、下野に地盤を持つ官人であったことは極めて蓋然性が高く、『日本紀略』の記事も下野における国衙領の侵食等の勢力拡大に対するものであったのではないでしょうか?いずれ、「遙任」、「隣国上野国衛への反対闘争に加担連座し」、「王臣子孫であり、かつ秀郷の武勇が流罪の執行を不可能としたため服命した様子は見受けられなく、すぐに許されて、」の根拠の提示をお願いします。
それが一学説であれば、『~とする説がある。』を加筆した方がいいと思いますし、小説家等専門家以外の意見で専門家からも一定の評価があれば『~とする見解もある。』程度の表現でしょう。--ろう(Law soma) 2006年10月24日 (火) 00:42 (UTC)[返信]
最初に『田原に居たから俵藤太。』なんて、あまりに人口に膾炙されてる事を私がノートで前述したので尊卑分脈まで持ち出されたのではと思ってます。要は、配流されたのにもかかわらず下野で勢力を保持したという点を云いたいのです。秀郷の父村雄は従五位上河内の守です。"ろうさん"が奥州藤原氏のノートで述べていることばを借りれば五位以上は、在京しなければならない筈でそこから遙任と言ったのです。遙任したなんて史料には、あまり出ません。赴任しないのは本来認められないのですから。それから915年延喜15年に上毛野基宗の反受領闘争があり、受領藤原厚載が殺されましたこの件を取り上げて記述しましたがこれ以外に配流の原因は無いと思います。配流は史実です加担して無いともいえないのでは。微調整します。papamaruchan22 2006年10月24日 (火) 12:03 (UTC)[返信]
微修正、了解です。上毛野基宗の反受領闘争との関連性は私の不勉強でした。
上の文の意図がよく分からないので一つ確認させて頂きますと、「遙任」ではなく「在庁」だということですね?秀郷が天慶以前どういう官位にあったかは不勉強で詳しくありませんが、押領使だとすると在庁の可能性が高いと思います。というのは、国司はpapamaruchan22さんもおっしゃっているように「赴任しないのは本来認められない」のですが、地方官以外の「五位以上は在京しなければならない」のが原則です。私が奥州藤原氏のノートで述べたことを取り上げられておられますが、「無官の五位」に関する原則ですから問題ありません。受領階級の場合、国司になっていれば、赴任しているのが通例ですが有位無官であれば在京の可能性が高いです、というより在京しなければ公務怠業で処罰されます。村雄は従五位上河内守になっていますから、そのときに河内に赴任したのでしょう。その際、秀郷は五位になっていなかったと推測できますから本拠地の下野にいたのではないでしょうか?この辺、推測ですが。--ろう(Law soma) 2006年10月25日 (水) 02:32 (UTC)[返信]
結論から申し上げれば押領使の就任時には当然ながら下野在庁ですね、いわば警察の長官ですのでね、ただ押領使になってたった2年後で追討官符をだされているのでほんとうは何だったんだろうとつじつまにクエスチョンしたのでした。「在京武士であろうと別に先祖伝来の地盤を地方に持っているものは多く、三代にわたって下野国衙に勤めていることからも下野で勢力を振るっていたことを否定する材料はないと思います。」とするろうさんの意見には、最初からあまり疑問を感じてませんが、ウィキの藤原秀郷の項目が流罪についてつじつまが合わないので摂関政治に失望するという筋書きのほうがこの場合は、妥当性もあると感じノートに疑問提起した次第でした。それから国司が赴任しているのが通例なのも時代経過とともに、かなりあやふやでしょうね。遙任の件は下野に先代以前から勢力があり、かつ若いころは、近江の田原にいたとなると-、父村雄は従五位上河内守で五位上で下級貴族として京に居てそんなに遠くない田原にも息子の「藤太」の伝説が数々残っている状況から、下野には誰がとの疑問で遙任地にとしたのですが。出典のタグという証拠を聞かれましたので遙任を削除した表現としたしだいです。一部歴史学者からの疑問については原典でないので割愛しましょう。papamaruchan22 2006年10月25日 (水) 10:02 (UTC)[返信]
了解です。対応痛み入ります。--ろう(Law soma) 2006年10月26日 (木) 23:50 (UTC)[返信]

将門の弱点[編集]

"龍神の助けで平将門の弱点を見破り、討ち取る.."に{{cn-span}}をつけましたが、改稿するかもしれません。

『御伽草子』ですと、将門が不死身の鉄の体の倒し方は、秀郷に恋慕した将門の妾が漏らしてしまいますので、その線で。--Kiyoweap会話2019年5月17日 (金) 21:34 (UTC)[返信]

memo[編集]

この記事に関連して利用者:Muteki2020会話 / 投稿記録 / 記録利用者:ミスターナンバーワン会話 / 投稿記録 / 記録が多重アカウントでブロックになっています。--柒月例祭会話2021年1月28日 (木) 04:04 (UTC)[返信]