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ノート:藤原国章

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>>天元5年(982年) 3月5日:皇后宮権大夫(皇后・藤原遵子)
公卿補任では確かに皇后宮権大夫と表記されています。ただし小右記では
天元5年3月5日条:「皇太后宮より、頻りに奏せられて云はく、『前大弐藤原朝臣<国章。>を以て、権大夫に任ずべき由を請ふ』と。」
寛和元年6月23日条:「此の暁、皇太后宮権大夫国章、薨ず」
とあります。史料によっては皇太后宮(昌子内親王)権大夫だと記載されていると追加した方がいいでしょうか。--山桃の森会話2023年12月5日 (火) 16:36 (UTC)[返信]

ご指摘の通りで、ここでは後世の文献である『公卿補任』より当時の日記である『小右記』の方が信頼度高いと思われます。僭越ですが、当方にて修正してしまいました。よろしくお願い致します。--Snap55会話2023年12月6日 (水) 15:39 (UTC)[返信]