ノート:荒聖治

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彼が、一流のレーサーになれた裏話、彼の先輩であると自他共に認める私が真実をお教えしましょう。彼には、偉大な父親がいます。もともとご存知のように、彼はカートをやって数々のレースに参戦していました。彼のその父は某大手外車専門のディーラーの腕利きメカニックでした。約3年間カートをやっていた彼に、19歳という、つまり自動車運転免許書を取れる年齢がやってきました。国内A級ライセンスはそれが無ければ取得することは出来ません。そして、彼らは、現在の荒聖治が生まれるに至った最高の選択を93年にしたのです。それは、フォルクスワーゲン・ゴルフのワンメークレース、フォルクスワーゲンカップ(旧名ゴルフポカールレース)に参戦する事だったのです。第一戦は、仙台ハイランドにて行われました。参加台数たった3台(そのうち郷氏が2台エントリー)、しかし、そこに大きな彼のターニングポイントがあったのです。出会い・・・彼を育てたと言っても過言ではない、郷和道氏との出会い。郷和道氏はチーム・ゴウのボス。本年度悲願のル・マン24Hを制した偉大な人物です。8年越しでそれを達成した彼のル・マンへの思いは、そして勝つ事に対する執念は並大抵の物ではなかったはずです。その、郷和道氏自身も言うまでも無く、真のモータースポーツフリークでした。実際、ゴルフポカールレースが全盛のころ(服部なおき、渡辺明、中谷明彦等のプロドライバーも参戦していた時代)エントリー数に於いても30台以上参戦していた時代に、7、8番手を走ってしまう程のドライバーとしてもシロートの領域を超えた腕前の持ち主です。前年度優勝マシンを手に入れ参戦をしていた郷和道氏。ワンメークといえどその中でも最高のマシン駆る郷和道氏を、旧式でありベストコンディションの車とは程遠いい、55番のゼッケンを背負ったPIAAのカラーリングを施した荒聖治号が、信じられないセンスを予感させる勢いで、すり抜けて行ったのです。そして、第二戦、富士スピードウエイ。このときには参加台数も15台と増え、JGTCの前座レースとなっていました。郷和道氏のチーム名はグランコルサ、現在のル・マン24Hレースを制したマシーンのカラーリングを手がける天才デザイナーが名付け親。そのグランコルサは郷和道氏がストレス発散の意味も含めて、彼が当時営んでいた某大手広告代理店よりほとんどのスタッフをそろえた経営コンサルティング会社のレクリエーションとして行っていた事も伝えておきます。そして、その第二選にひょんなことから、郷和道氏に惚れ、仙台にひつ出場していなかった第三の人物が参戦しました。レースの結果は、1位はアイタックゴルフ、2位にグランコルサ、3位に荒聖治という結果でした。その富士から第三の人物の一声で荒聖治はグランコルサの一員となり総合優勝を手に入れ、アメリカ行きの切符を譲り受け、彼のセンスと郷和道氏の応援によって今の優秀なドライバーになれたのです。