ノート:脚韻詩

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。

三宅惺氏に関する記述について[編集]

この記事ができたときからある箇所(段落?)なのですが、疑問があります。

>二十一世紀になると、歌人の三宅惺がインターネット上で「脚韻詩の宣言」を発表、ラップ世代に脚韻詩への試作を呼び掛ける。以後、ネット詩でも多くの脚韻詩が書かれるようになった。

「脚韻詩の宣言」というのは三宅氏のサイトにあるこの文章のことかと思われますが、「ラップ世代に脚韻詩への試作を呼び掛け」ている文章ではなく、自身の取り組みを書いたエッセイ的な文章であるように思います。

また、「以後、ネット詩でも多くの脚韻詩が書かれるようになった」という箇所についても、検証可能な根拠がなければWikipediaのルールである「独自研究は載せない」に反するのではないかと思います。

よって該当箇所の削除を提案します。とりあえず今はコメントアウトの状態にしておきます。

青鈴 2007年5月5日 (土) 23:21 (UTC)[返信]


削除ではなく[編集]

記事の正否ではなく、言及する必要性があるかないかを論じるのは、無理があると思います。

まして一人の名前だけを削除するのは、個人への攻撃と錯覚されるおそれがあります。

該当箇所よりも重要な事柄があるならば、その人とその業績を書けばよいと思います。それで問題は相殺されると思います。

ただし該当項目への青鈴さんの指摘にもうなずけるところがあります。

よって該当箇所は書き換えを提案します。本文にはわたくしの私案を書いておきました。

こうじ 2007年5月7日 (月) 17:00 (UTC)[返信]

記事の中で言及する必要性(価値)があるかないかを論じることは当然だと思います。 論じる必要性がないなら、脚韻詩について触れた作文をネット上に掲載した人のことを、 すべてWikipediaの脚韻詩の記事の中で言及しなければいけない、ということになります。 もちろん、これについては、韻文詩口語短歌などでも事情は同じです。 それぞれの記事の中で問題になっている記述について、言及する価値があると判断するための根拠を教えてください。 言及された内容が事実であるとしても、それが社会的な影響を持たないごく個人的な事柄であるとするなら、Wikipediaの記事の中で言及する価値はないと私は考えるのです。

--Tanka1 2007年5月7日 (月) 21:45 (UTC)[返信]


Tanka1さんの投稿記録を拝見しますと、Tanka1さんのWikipediaへの投稿はすべて三宅惺の記述を削除するものです。 失礼ですがTanka1さんは脚韻詩の記事が問題なのではなくて、特定の個人の名前を削除するためだけにここに参加しているのではないですか? 複数の人が三宅惺の記述は言及する価値があると判断したのです。 Tanka1さんがWikipediaのすべての記述の中から三宅惺に関する記述だけを問題視した根拠はなんですか? Tanka1さんの記述姿勢はWikipediaにふさわしいものだとは思えません。

219.36.254.86 2007年5月8日 (火) 01:25 (UTC)[返信]

問題になっている部分を219.36.254.86氏が「複数の人が三宅惺の記述は言及する価値があると判断したのです。」としていますが、コメント依頼をして他の方の判断をあおぐこともいい方法と思います。私個人の考えでは三宅惺なる歌人はアマチュアで、Wikipediaに掲載すべき業績のある方とは思えません。ちなみに三宅惺は保護依頼が出ました。--Centaurus 2007年5月8日 (火) 01:53 (UTC)[返信]

Tanka1氏の言う通りだと思います。219.36.254.86氏は問題をすり替えないでください。青鈴 2007年5月8日 (火) 15:20 (UTC)[返信]