ノート:羨道

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記事を読ませていただいて確認したい点がありますので質問いたします。天文台構内古墳なのですが、多摩地区所在古墳確認調査報告書(1995)によれば、羨道は10-20センチ程度の狭い範囲とされ、写真の部分は大部分「墓前域」とされている部分だと判断されます。7世紀の古墳は確か時代が下るに従って羨道が短くなるのが特徴で、天文台構内古墳が近隣の武蔵府中熊野神社古墳より後出の古墳と考えられる一つの根拠が、羨道がほとんど確認できないことだったと記憶しています。まあ、天文台構内古墳の記事で私が書いた文章がわかりにくかったのが原因だと思いますが(苦笑)、ご確認よろしくお願いします。--のりまき 2010年3月23日 (火) 13:07 (UTC)[返信]

おひさしぶりです。御指摘の点はいま写真で確認しました。羨道については、確かに、当方で少し勘違いしていたところがあるようです。何せ「羨道」の文字の書かれたパネルが添えられている写真は稀少なので、飛びついてしまったところがありますね。御指摘、まことにありがとうございました。キャプションは変更しておきます。ところで、天文台構内古墳の本文には「三室構造」とありますが、これはどうなんでしょう? 羨道は石室にふくめてよいのでしょうか。ちょっと前から気になっていました。ついでみたいで申し訳ありませんが、御確認いただければ、幸いです。--Chokorin 2010年3月23日 (火) 13:33 (UTC)[返信]
天文台構内古墳は確か三室構造であったと思います(多摩地方の有力終末期古墳の特徴は、胴張り形の玄室と複室構造ですし…)。そして羨道は石室に含めているわけではないと思います。ただ、実のところ1970年の発掘はどうにもよくわからない内容のもので(苦笑)、、そして最近の発掘についてはまだ正式な発掘調査報告書が出ていないので、詳細についての確認は難しいです。まあ、1970年の発掘結果についてまとめられている多摩地区所在古墳確認調査報告書(1995)や、現在手もとにある文献で時間が取れた時に加筆したいと思います。少々気長にお待ちを…--のりまき 2010年3月24日 (水) 12:58 (UTC)[返信]