ノート:細川護貞

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侯爵について[編集]

侯爵ということは貴族院議員だったということですよね?つまり細川護貞は政治家でもあったのですよね?どなたか講釈願えますか?--赤い彗星のシャー 2006年9月21日 (木) 21:24 (UTC)[返信]

侯爵・侯爵なら自動的に貴族院議員の議席を有する事になるけど、それとは別に『政治家』かどうかはしりません。皇族も成年に達すると自動で議席を持ったが、議員でありながら議会に出席しないのが通例だったと言います。東京都知事の石原慎太郎も作家か政治家かという択一なら作家だという話を見た事が有ります。
しかし、細川護貞は本当に侯爵だったのですか?
細川家当主であるのは間違いないとしても、先代の護立は戦後も永く御健在でした。--代言人【右】 2006年9月22日 (金) 02:43 (UTC)[返信]
え?もちろん細川護貞は侯爵ですよ! 細川護貞が侯爵であったことを疑うなら、それなりの資料の提示を願います。オレの方からも侯爵であったことを裏付ける資料を出しておきます。細川護熙--赤い彗星のシャー 2006年9月22日 (金) 15:30 (UTC)[返信]
ドコの誰が作ったかもわからないWEBページは根拠になりません。普通爵位の継承は当主の死亡によりますが、先代の護立が華族制度廃止後も存命で、亡くなったのは昭和45年。制度廃止の昭和22年以前に隠居して、尚且つ護貞が廃止前に襲爵したという事実がなければいけません。実際に侯爵を授爵したか襲爵した人物は、ウィキペディア内侯爵のページに掲載されている分のみです。--代言人【右】 2006年9月22日 (金) 16:38 (UTC)[返信]


誰が作ったWEBページなのかを重視するならば、ウィキペディアも信用できないことになりますけど?そんな理屈で否定するとは・・・
じゃ、もう少し資料を出しましょうか。東條英機の息子の東條俊夫(元空将補)が製作に寄与したホームページから引用します。

統帥権独立の弊害と参謀総長兼務
昭和19年2月、東條首相は、当時の参謀総長杉山大将を強引に説得して、自らが参謀総長を兼任するに至りました。 これは勿論陸軍史上前例のないことであり、このために重臣や海軍からも反発を買い、陸軍内部においても支持者を減らすことになりました。 細川護貞侯爵(近衛元首相の女婿、細川護煕元首相の父)などは、「東條が望むものは、道鏡の地位か。」と憤慨しています。 しかし、この細川侯爵の見解は完全に間違っています。 なぜならば、東條首相がこの様な周囲から横暴だととられることが分かりきっている挙にでたのかというと、それは私利私欲のためではなく、大東亜戦争に勝ちたいという一心からであったからです。 東條英機という人物には、私欲とか世間体などといった行動の足枷となるような感情があまり無く、純粋で、几帳面なほど真面目で一途な人物だったようです。 そういう人物でなければ、そもそも、当時も戦後も「暴挙」と批判されるような行動に敢えてでることなどあり得ないでしょう。


『細川護貞侯爵』となっていますね!「普通爵位の継承は当主の死亡による」というのは、本当ですか?死亡しないで襲爵した例はどれくらいあるのですか?そのソースも出してください。

「実際に侯爵を授爵したか襲爵した人物は、ウィキペディア内侯爵のページに掲載されている分のみです。」と主張していますが、なぜそのリストをそんなに信用するのか根拠を教えてください。出典は何ですか?1940年10月25日以降に誰も襲爵した人はいない!というのが正しいとどうして断言できるのですか?--赤い彗星のシャー 2006年9月22日 (金) 19:05 (UTC)[返信]


追記します。「実際に侯爵を授爵したか襲爵した人物は、ウィキペディア内侯爵のページに掲載されている分のみです。」と代言人さんは断言していますが、肝心要のそのリスト、全然信用できません。ちょっと調べただけですぐに不完全だと誰でもわかりますが、自分で調べる手間を省略したければ、オレのブログを見てください。赤い彗星:シャーの日記--赤い彗星のシャー 2006年9月22日 (金) 22:24 (UTC)[返信]

確かに侯爵のページは護成が抜けてますね。どこの誰が作ったかわからないページは根拠にならないといったとおりでしょ? で、そのページが不完全だからといって護貞が侯爵になった証拠にはならないね。貴方のあげたページは侯爵が名前についているだけで、護貞が襲爵した事にはならない。--代言人【右】 2006年9月23日 (土) 06:01 (UTC)[返信]
戦前の華族制度に通じているわけではないので誤りがあれば容赦願いたいが、戦前民法には隠居制度があったわけだがら家督が変更されれば爵位も継承されるものではないのですか?--水野白楓 2006年9月23日 (土) 06:14 (UTC)[返信]

(追加)明治17年の華族令7条では「本人生存中相続人ヲシテ爵ヲ襲カシムルコトヲ得ス」とありますが、同40年の改正華族令10条では「爵ヲ襲クコトヲ得ヘキ家督相続人又ハ其ノ法定代理人ハ相続ノ開始ヲ知リタル時ヨリ六箇月内ニ宮内大臣ニ家督相続ノ届出ヲ為スヘシ」とあります。新憲法制定以前の民法における「家督相続発生は戸主の死亡の他に戸主の隠居も要件」足りえました(遺産相続は戸主以外にもありえたので一律に死亡時からでしたが)から、細川護立が華族制度廃止以前に隠居していれば、改正華族令10条により護貞が爵位を相続する事は可能です。ソース→[1]及び[2]--水野白楓 2006年9月23日 (土) 06:32 (UTC)[返信]

そのソースの載っている中野文庫では護立は昭和22年5月まで貴族院議員だとなっていて[3]この内容が正しければ隠居してないでしょうね。このページには護貞の名前はありません。--代言人【右】 2006年9月23日 (土) 13:35 (UTC)[返信]


水野白楓さん、はじめまして。参考資料、勉強になりました。どうもありがとうございます。オレが個人的に調べた範囲では細川護貞の肩書きは実は『細川護立侯爵令嗣』であったのがいつのまにか『細川護貞侯爵』と人々から広く認知されるようになったのかな、と想像しています。前回紹介した資料の原文を見つけたので改めて出しておきますが、表記の仕方からかなり古い時期に作製されたものを複写したものと考えられます。

(八)統帥權獨立的弊害與兼任參謀總長
昭和 19 年(1944 年)2 月,東條首相強硬的說服了當時的參謀總長杉山大將,讓自己兼任參謀總長。這是陸軍史上前所未見的舉動,因此遭到重臣與海軍的反對,甚至連陸軍內部支持東條首相的人都減少了。細川護貞侯爵(近衛前首相的女婿,細川護熙前首相的父親)等人甚至還憤怒的說出「東條想得到的是至高無上的地位嗎?」等等的話。但是細川侯爵的見解是完全錯誤的。東條首相會做出這種遭到周圍的人唾罵的舉動,並不是為了滿足自己的私慾,而是因為想要打贏大東亞戰爭。據說東條英機這個人物,並不會被私慾或世間的看法限制住自己的行動,而是一個純粹、個性有條理、認真的人物。如果他不是這樣的一個人物,那麼他就不會做出在當時與戰後,都被批評為「惡行」的這個行動了。

今回の自分の結論をウィキペディアでも独立した見出しを作って触れた方が百科事典として読者に親切で中立的な視点になるとオレは思うのですが、どうでしょうか?水野さんが同意してくだされば、そういう結論で合意形成ができたということで作製してみます。水野白楓さんにお任せできるのであればお任せします。あと、細川護熙のページとも整合性をとらないといけないですね。・・・とオレは思うのですが、水野白楓さんはどうお考えでしょうか?--赤い彗星のシャー 2006年9月24日 (日) 03:16 (UTC)[返信]

私は通りすがりにちょいと口を挟んだだけですので、私のことは気にされず皆様が合意できる結論が出来上がるのならそれでいいと思います。--水野白楓 2006年9月24日 (日) 07:16 (UTC)[返信]
赤い彗星のシャーさんの言ってるそれは原文ではなくて、中国語の訳文ではないでしょうか。『細川護熙前首相的父親』とあるように細川内閣の倒れた平成6年4月以降に作ったものでしょう。そして、同ページに『翻訳:柳生十兵衛先生』とあるように日本語の文章が先にあったようです。そもそもインターネット自体がここ10年くらいのものなので、インターネットだけで証拠を集めるのは難しいのではないかと思います。--代言人【右】 2006年9月24日 (日) 14:49 (UTC)[返信]

代言人さん
オレが前回紹介したヤツは原文ではなく、中国語バージョンであり、平成6年(1994年)4月28日以降に製作されたものであるという指摘、同意します。ところで、これの翻訳者は柳生十兵衛という名前だというのは、どこに書いてあるのですか?冒頭と末尾の部分からオレには筆者は大日本帝國陸海軍史料館長であると読めるのですが・・・
それからウィキペディアで細川護貞のページに9月22日までの長い間、「爵位は侯爵。」という記述があったこと、その他のホームページなどからも細川護貞が侯爵であったと現在も広く認知されていることを考えれば、代言人さんが「爵位は侯爵。」という箇所の削除だけをした処理では百科辞典として十分な説明責任を果たしていないと思います。前回、オレが述べた見解と新しい見出し(「爵位について」)を作るという発案について代言人さんは合意できますか?--赤い彗星のシャー 2006年9月25日 (月) 16:11 (UTC)[返信]

柳生十兵衛という名前は赤い彗星のシャーさんが最初に提示したページの画像内に書かれています。統帥権独立の弊害と参謀総長兼務。現在はその画像をクリックしても中文版のページは表示されませんが、削除なりでページが消える前の状態をgoogleがキャッシュしたのが2つ目の中国語のページじゃなかろうかと想像します。
確実に侯爵ではないのなら(そう思いますが、)節に分けるほどではなく、控えめにくらいなら侯爵ではないとか襲爵していないと書いても良いと思います。--代言人【右】 2006年9月25日 (月) 17:08 (UTC)[返信]

編集内容に異論なし--代言人【右】 2006年9月26日 (火) 20:48 (UTC)[返信]

異論あり[編集]

『平成新修 旧華族家系大成』下巻(1996年霞会館 ISBN 4642036717)p.476に「細川護貞(侯爵)」と明記してあります。--指鬘外道 2007年3月5日 (月) 10:20 (UTC) 失礼、よくよく見たら爵位の継承を示す「承」の字が護貞の箇所には付いていませんでした。太平洋戦争末期の紳士録も確認しましたが、護貞が爵位を継承しなかったことはここでも確認できました。勘違いをお詫びいたします。--指鬘外道 2007年3月18日 (日) 09:46 (UTC)[返信]