ノート:紀太藤一

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出典がまったく示されていないか不十分です。内容に関する文献や情報源が必要です。(2018年1月)

>>具体的にどこの記載についてでしょうか。 >>出典の文献引用がなされていない部分は紀太藤一の娘である百溪文枝が記録していた文章から引用したものです。

大言壮語的な記述になっています。(2017年5月)

>>大言壮語都は事実でないことをことさら大げさに表現することと思いますが、土浦一高時代の紀太藤一の授業に対する厳しい態度などは実際にあった逸話であり、この人が生きた時代の教育者としては決して珍しくない振る舞いでした。 >>千葉県保田町の家の描写は実際に住んでいた百溪文枝が経験した事実に基づいたものです。

独自研究が含まれているおそれがあります。(2018年1月)

>>実の娘が記録してきた逸話は第三者の学問的記載以上に重要な歴史的価値があります。 >>独自研究とはどの部分の記載を言っているのでしょうか。 以上  --Genkinekowiki会話) 2021年1月3日 (日) 00:46 (UTC) --Genkinekowiki会話2021年1月3日 (日) 00:48 (UTC)[返信]

「末娘の文江の手記より」がさかんに出てきますが、この手記はいつ、どのような形で公表されたものでしょうか。書誌情報がないのでわかりません。出典はウィキペディアの他の編集者が検証することができるように提示するものですが(Wikipedia:検証可能性)、「末娘の文江」が百溪文枝というお名前だとこのノートで初めてわかる状況です。これでは誰も検証できません。
また「思われる」「考えられる」という表現が目立ちますが、思ったり考えたりしているのは誰でしょうか。専門家が思ったり考えたりしているのなら、そう主張している文献を示すべきですし、Wikipediaの投稿者が思ったり考えたりしているのなら、それは独自研究でしょう。
一般に「教育者、英語学研究者、翻訳家、英語文法書著者」である人物を百科事典で調べる読者が期待するのは、この人物の教え方にはこういう特徴があって、それが支持されたからこういう反響があった、といった記述でしょう。ところがこの記事を読むと、「赤坂中学の全校生徒が並んだ」とあることから支持されていたらしいことはわかりますが、どういう教え方だったのかはわかりません。竹刀で机を叩いたから支持されたわけでもないでしょう。
一方で、アジの塩焼きだの、別荘がどうこうだの、「教育者、英語学研究者、翻訳家、英語文法書著者」の活動には直接関係のないことには字数がさかれています。「末娘の手記」を見て記事を書けばこうなるだろうと思います。アジの塩焼きに「重要な歴史的価値」があるのかどうかはわかりませんが、百科事典は「第三者の学問的記載」に基づいて書くものだと思います。--西村崇会話2021年1月4日 (月) 23:44 (UTC)[返信]

西村崇さんが、お書きになっている事はよくわかりました。 「赤坂中学の全校生徒が並んだ」とあることから支持されていたらしいことはわかりますが、どういう教え方だったのかはわかりません。 >葬儀のことは、私も大学教員ですが、原題ではこのようなスタイルの教育は時代錯誤だと思いますが、当時の教育環境の一面を示唆する情報ではないかと思います。 >「この人物の教え方にはこういう特徴があって、それが支持されたからこういう反響があった、」ことを説明するための状況説明です。 この記述から「英語教育法」の全貌はわかりませんが、教え方の特徴の一端を表していると思います。--Genkinekowiki会話2021年1月21日 (木) 02:03 (UTC)[返信]

>ある人物を百科事典で調べる読者が期待するのは、 これは西村様が百科事典を読む時に期待することを想定してくださいましたが、これは読み手により様々ではないでしょうか。まさに、多様な目的が「百科事典」の目的と思います。例えば、教育者や英語教育法を専門とする方であれば関心はそこになると思われます。しかし、この時代にどのような人が英語を教えていたのか、単にhttps://weekly.ascii.jp/elem/000/002/632/2632694/や人物像を知ることができるだろうかという興味を持つ方がこのページを楽しみに見ることもあると思います。それを証する客観的なデーターは必要だと思いますが。 「末娘の手記」を「逸話・エピソード」として章立てすれば、教師や教育者にまつわる人間像に関心のある人、面白そうな出来事に関心ある人のニーズに適う総合百科としての情報提供ができるのではと思います。--Genkinekowiki会話2021年1月21日 (木) 02:03 (UTC)[返信]

また、私の投稿のかなりの部分が、このような投稿者との意見交換もなしに削除(非表示)になっておりますが、このようなことは普通なのでしょうか?誰でも自由に編集できるという性質上、やむを得ないのでしょうかおしえていただけると幸いです。--Genkinekowiki会話2021年1月21日 (木) 02:03 (UTC)[返信]

返信 まず内容について、似た人物として米川正夫を挙げたいと思います。小項目事典ですから記述は絞られていて、年表も著作の一覧はありませんが、こういう名訳を残したから有名なんだ、と簡潔に示されています。私はこの人は知りませんが、なぜ事典に載っているのかは一瞬で理解できました。事典が最低限おさえるべきことはこういうことです。
一方で、この紀太藤一の記事は、著作一覧が載ってはいます。しかし、どれが主要業績なのか、これでわかりますか。『パーレー万国史』はあの系統の本では最後だったそうで、研究文献で「最後を飾る紀太」と評されたりしているのですから、『パーレー万国史』は目立った業績ではあるのでしょう。どうしてこういうことを調べて、書かないのか、ということです。
「事典の読み方は読み手により様々」というのは、脇道にそれたことを長々と書きたがる人からよく聞く言い分です。しかし、事典には最低限おさえるべきレベルというものがあります。最低がまだできていないのに、これが役に立つ人もいるだろうからと、先に脇道を懸命に整備してどうするんでしょうか。
あと逸話の大半が消えているのは、公刊されていない手記に基づく記述だから、という理由で消した人がいるからです。誰もその手記とやらを見て、記述が正しいかどうか確認できないのですから、消すこと自体は妥当です。だからといって手記を公刊すればいいというわけではありません。本来すべきことは、第三者が紀太藤一を取り上げた文献を探して、そこに書かれていることだけを書くことです。--西村崇会話2021年1月21日 (木) 03:46 (UTC)[返信]