ノート:米餅搗大使主

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和珥氏に関して[編集]

同族ではありますが、系図の上では後代の和珥氏は、米餅搗大使主ではなく兄弟の日触臣の子孫にあたるものなので、再度この点については削りました。 編集の1度目の記述にあるものは、私自身の全くのミスで、本文で言及している新撰姓氏録に根拠を持つ記述ではありません。きっと旧版の記述を復活されたのかと思いますが、今回は2度目に削ることになるので、ノートに記述しておくことにしました。--ハイギョ 2010年9月21日 (火) 16:25 (UTC)[返信]

上に関連して。「米餅搗大使主」のもとの名を「日布礼大使主」とする伝えがあります(参照:滋賀県神社庁[1]小野神社の項など)。 『日本書紀』で応神妃・宮主宅媛の父は「和弭日触使主」とあり(『古事記』では「丸迩之比布礼能意富美」)、これは系図上では、米餅搗大使主の兄弟の「日触臣」のこととされています。 しかし『古事記』の「意富美」を「大使主」と見るならば、もとの名を「日布礼大使主」と見た米餅搗大使主と、和邇の祖「丸迩之比布礼能意富美」とは、無視できない関連性があります。同一人物ならば、米餅搗大使主が和邇の祖と言う表現が間接的に存在したことになります(系図とは矛盾しますが)。 このあたりの解釈については議論の分かれるところでしょう。--ハイギョ 2010年10月27日 (水) 10:50 (UTC)[返信]