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ノート:笠井叡

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検証可能性について

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  • Fromm氏へ。あなたは何度もよく分からない「修正」をしておられますが、はたして笠井の舞台を何度ごらんになったことがありますか?自分が知らないことはすべて信用性が薄いと判断するのは、おかしいですよ。また、あなたはどれだけ、笠井の踊りに興味があるのですか?西方 07/9/14

Wikipediaでは検証可能性のない内容は記載しないこととなっております。Wikipedia:検証可能性,あとWikipedia:存命人物の伝記もご覧下さい。--fromm 2007年9月19日 (水) 05:59 (UTC)[返信]

  • 「この記事や節の内容に関する文献や情報源を探しています」ということですが、舞踏関係者から直接聞いた情報で、インフォーマーを明かすと問題が起きる場合が多々あります。一例として、わたしは「笠井 叡は女によくもてる」と書きました(すでに削除されています)。情報源は大野慶人氏です。この程度であればあまり問題ないかも知れませんが(問題視する方もおられるかも知れませんが)、情報源を明かせないトピックも多いです。記事の対象者やその関係者が存命で、ネット環境にアクセス出来る場合、インフォーマーを明かさないからこそ、正確なエピソードが書ける場合があるのではないでしょうか? 匿名性を保証するからこそ書ける記事もあるはず。こういうケースはどう対処すべきでしょうか? 07/11/15
  • 「検証可能性」という規則はやはり重要です。それがないと、どんな記述も可能になってしまいます。

解決策としては、独自の情報や研究は、やはりwikipediaではなく、ご自身のサイトを開設されるなりするといいのではないでしょうか?   jap 07/11/20

>「検証可能性」という規則
根源的な問題になりますが……。 検証可能性、というのはあくまでも「掲載紙やテレビの放送日などを確認出来る」ということであって、その情報が真実や事実であるかどうかは分かりませんよね?  実際の所、虚偽の記述をした書籍や、故意でなくても誤った情報を紹介している雑誌は多いです。 そうした情報も「独自の調査・取材」をしているわけですが、ただ単に「出版」という制度で権威付けされているだけ。 取材者の情報源が確認出来ないことも、すくなくありません。 「責任の所在を明確に出来るかどうか」という、その一点においてのみ、出版や放送は優れているにすぎないと思います。

  • だれが書いたのか分からないのでせめてハンドルネームなり日付なりの記述をお願いします。

おっしゃるように「根源的な問題」までほじくっていくと、なんでも不確定ということはいえますが、それは哲学の問題です。検証可能性は悪質な記述を防止するための規則の問題です。  また、「出版」が「権威」かどうかというのもまったく関係なく、これは言い方を換えれば、責任の問題です。もし不当な記述が出版物にあった場合、責任主体である出版社なりは、損害賠償をするなりの義務を持ちます。  また、GFDLをお読み下さい。これらの議論はそちらでお願いします。  jap 07/12/14

「ソドム百二十日」公演の正確な名前

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『(1979年)同年3月 「ソドム百二十日」第一生命ホール』『1970年代に行われた「ソドムの120日」という公演で』という記述があり、両者は同じものだと思われるのですが、どちらが正確なものなのでしょうか?--Igitur 2009年10月30日 (金) 15:09 (UTC)[返信]