ノート:穴山信君

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直轄の金山[編集]

笹本正治氏などは直轄であったと考えているようですが、白水智氏は直轄であったとする見解に疑問を呈しています。(白水智 「山地の資源とその掌握」『定本・武田信玄―21世紀の戦国大名論』笹本正治、高志書院、2002年。)“甲斐の金山は武田(本)家のもの”という通説を覆す意味では両者とも同じ立場ですが、穴山氏の直轄であったかどうかは決着が付いていないように思います。220.145.43.151 2006年7月30日 (日) 10:17 (UTC)[返信]

御返事遅くなり申し訳ありません。ノートに書き込みがあるのに先程気付きました。「直轄」という言葉は、武田宗家の管理から独立したという広義の意味で使用しました。武田宗家自体が金山の直接経営を行っていなかったことから、穴山氏もそれに近い形態だった可能性は大きいと思います。Nubolari 2006年9月11日 (月) 04:42 (UTC)[返信]

確か、信君が金の採掘を許した文書が現存しているはずですよ。「犬の安堵」(狩猟)を示した文書とかありまして、山の生業を持つ人たちを被官化していたことを示す文書で、それくらいのことは言えると思います。確認すれが正確に出せますので、しばしお待ちを。--でここ 2007年9月21日 (金) 11:18 (UTC)[返信]

穴山信友の天文十二年の判物では、芳山(現在の早川町保)小沢の「すちかせき」を村田善九郎、望月善左衛門尉、同伴左衛門尉、同神左衛門尉、同新右衛門尉、同三郎兵衛尉の六名に任せています。保の金山に関する文書は、甲斐国の金山関係の文書で現存する最も古い文書とされています。天文三年につづら山、ほう山の代官を任命したとされる文書もありますが、これはどうも怪しい文書のようです。望月善左衛門尉は後に土佐守の官途名を許され、保に新恩地を与えられています。「犬の安堵」の文書もこの家に伝わっています。金山の関係者が穴山氏に仕えていたのは確かなようです。--Mangetsu3310 2009年10月22日 (木) 14:49 (UTC)[返信]

信君の死と落ち武者襲撃慣行[編集]

 三河物語からの引用を記入、落ち武者襲撃慣行を理解していない「一説には徳川家康と人違いされたためという。」を消させていただきました。戦場で勝者の支配地では、周囲の村人により敗者である武士は全て襲撃し、掠雑し殺していいという慣行が戦国時代から関白惣無事令と並行する落ち武者襲撃慣行停止令まで存在したのです。 --2007年8月14日(火)奈良たかし

評価部分について[編集]

穴山氏は武田親族衆なんですけど、河内地方においては独自権力をもってましたし、どうも武田三代以前には武田氏にとっての抵抗勢力ですし、宗家意識が濃厚であったように思えますね。守護権威の確立した武田三代期でさえ、多くの親族衆が武田の名乗りを控えるなか武田を称し続けていましたね。信君を「裏切り」と見る評価も、穴山氏の性格を念頭に置いてあるのかなぁと疑問に思うのですが、そもそもこのような観点からの評価が生まれる背景には江戸期以来の軍鑑ブームや明治以降の信玄の英雄化などを通していわゆる武田ファンが成立したことがありそうですね。その辺り考察した文献があれば本分にも反映させられるのですが、いかがでしょう?--でここ 2007年9月21日 (金) 11:10 (UTC)[返信]