ノート:神童

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「かもしれない」「であろう」「が相応しい」など、個人的考えが多く見受けられる記事だと思います。また、哲学に神童は存在し得ないと言っておきながら後半でカントが神童と呼ばれなかった理由を「認知」とするなど、矛盾も多く見受けられます(美空ひばりが例外だとするとカストラート等はどうなるのか。)。個人のコラムのような状態ですが、このような場合、独自の研究を張っていいのでしょうか?Qazzx 2005年8月17日 (水) 15:43 (UTC)[返信]

本文を読みましたが、神童の定義に「きわめて知能の高い児童」とあるのがまず納得できません。確かに知能の高低と神童であることは関連はありますが、ではきわめて高いとはどのような状態なのか、児童であったモーツァルトの知能が高いか低いかどのように区分するのか、本文を読んでも分かりません。知能指数で弁別、判断するのではなさそうですし。次に、神童の分野を限定していますが、Qazzxさんと同様、私にも恣意的であるように思われました。少なくとも参考文献に挙がっている3人(人選が正しいのかは判断できませんが)、宮城音弥、エルンスト・クレッチマー、ヴィルヘルム・ランゲ・アイヒバウムの定義をきちんと示してもらわないと個人の研究と見分けがつきません。61.115.201.81 2005年8月18日 (木) 08:47 (UTC)[返信]

えーとりあえず、本文の気になる点をいくつか上げていきます。

  • 神童とは「知能の高い児童」ではなく、「才能の突出した児童」ではないのか。IQにこだわる意味があるのか。
  • 音楽と数学の分野にこだわる理由は何か。en:Child prodigyを見ると多くの分野に神童が現れているが。
  • 疑似神童、暫定的神童をサイト検索してみたがこのWikipedia関連以外ではまったくといっていいほどヒットしない。この呼び方及び概念の出自はどこか。区別があるという割にそれらに対しての説明がないのはなぜか。
  • 「神童の条件」という項目で条件を語っていない。
  • 「特異才能と神童」例に挙げられている「直観像」(というか、これしか触れられていない)と神童との関連性は証明されたことなのか。
  • 「小説を書く神童というのは存在しないと考えられる。」考えているのは誰か。
  • 美空ひばりが例外とはどういうことか。「天才的な歌唱力を持った児童」はいても、「天才性」を発揮するのは成人後とは矛盾ではないか。
  • 天才の研究が鍵括弧なしの赤リンクだが何を指すのか。
  • 「音楽・数学・抒情詩」
    • 音楽 - 成人の天才について語り、その例として「モーツァルト」を挙げる意図がわからない。これでは「神童」の説明になっていない。
    • 数学 - 何が劇的なのか。十代では神童と呼ぶには遅すぎるのではないか。
    • 詩 - 偽作を書いた人物がなぜ神童なのか。説明がない。「相応しい」とは誰の意思が込められているのか。
  • 「生物学・文学・哲学」で「哲学では、神童というのは基本的に存在し得ない」と記述してあるのに、後半で「イマニュエル・カント」を例に出すのはなぜか。
  • 「神に愛された者は若く死ぬ」の項目全体が、個人的なエッセイに思われる。夭折しなかった神童はどうなのか。夭折すれば神童と呼ばれたかもしれないとは失礼ではないか。ここは「~かも知れない」が多すぎる。
  • 「馬鹿が長生きするのではない」の項目は、もうすでに「神童」からかけ離れた文章になっている。
  • 「少年の身にして世を去りぬ」夭折は夭折で説明すべき。「神童」に記述する意図がわからない。
  • 「参考文献」天才についての書籍を無理矢理神童に結び付けている感がある。「天才」については天才で触れるべきであり、「神童」で書くべきではない。
  • 「Category」文学も哲学も、本文内で神童の出現に関してはほぼ否定されていたはずだが、なぜカテゴリに「Category:文学」や「Category:哲学」が含まれているのか。

軽く挙げただけでこのくらいです。全体的に個人的な文章にしか見えないのが今の「神童」の現状です。似たような内容が何度も繰り返されたり、また、例を挙げてもそれに対する説明がほとんどない。本文内で矛盾も多く、何が言いたいのかわかりにくい。どこかの研究者が証明したのか(そもそも証明できるものではないが、定説として存在しているのか)、それとも筆者の個人的発想なのか読んでて不安になる、そんな文章です。情報源があるのならそれを示すべきでしょう。それが出来ないなら、{{独自の研究}}(研究と呼べるものではないが)を張らざるを得ないと思います。Qazzx 2005年8月20日 (土) 17:45 (UTC)[返信]

ざっといま読みました。「イマニュエル・カント」なんて人はいませんよね、と重箱をつっこんでおいて
全体的にQazzxさんに同感です。
「独自の研究」であって編集対処が望ましいのではありますが、これだけの量となると大変なんで、どなたかすぐに着手できるのでないなら、いちどProject:削除依頼をくぐらせたほうがいいようにも思います。--Aphaia 2005年8月20日 (土) 17:55 (UTC)[返信]

削除依頼が終了し、存続が決定しました。元々私は存続派だったので上記のような問題点を指摘したわけですが、Maris stella氏には伝わらなかったようで残念です。さて、今後の方向性についてですが、Maris stella氏が加筆の意思をWikipedia:削除依頼/神童で見せましたので(それなのになぜ削除依頼にかけたのか分かりませんが)、是非ともMaris stella氏には上記の疑問点に答えて頂きたく思います。それにより編集の方向性が見出せると信じます。もし、Maris stella氏からの回答がなかった場合、まずは「神童」と関係ない部分を削除し、他の点も順次修正していきたいと思います。(ちなみに、私は自宅のパソコンが使えませんので、編集が遅れることはご承知ください。Maris stella氏の返答を待つ意味もあり、時間をかけて良い方向に進めていきたいという意図もあります。他の方が編集に参加することはもちろん大歓迎です。)Qazzx 2005年9月10日 (土) 08:47 (UTC)[返信]

メモ[編集]

Qazzx さん。まず、「神童」を「神童 (文化)」にノートでの相談なしに移動させたことについて。お詫びいたします。「神童 (文化)」のノートに記していますが、「神童」と「文化的現象概念としての神童」はやはり異なる概念なので、百科事典としての内容の豊かさを考えれば、現在のノートの論調では、「神童」の項目に、「神童の文化史」というような内容は載らないように思えたので、別概念であるとして、別項目を立てたのです。どなたか「利己的行為」だとか言っている人がいますが、どこが利己的行為なのか、ということです。「神童」の元の項目でわたしが記したのは、「神童の文化史」または「文化における神童の現象」というような内容だったのです。Maris stella 2005年9月10日 (土) 16:34 (UTC)[返信]

そして、このような内容は、意図して選んだものだとも言えるのです。英語版の child prodidy を見ると分かりますが、dsicussion で膨大な議論があり、本文自体は、「神童と考えられる人物のリスト」になっています。この英語版の方向性は間違っていると考えたので、「神童の文化史」という形の百科事典的記載にしたのです。わたしが列挙した神童、神童に近い人、対比的な人は、どれも「歴史的人物」で、評価が定まっており、神童と呼ばれた人も、文化史的にそのような呼称が定着している人たちであるということに注目してください。「すでに神童であると、誰もが認めている人」を元に、神童の記載を行ったのです。
英語版は何が問題であったのか、分析もできますが、それはおいておきます(現在、英語版は、「正確性」のテンプレートが貼られています。当然の結果だとわたしは思います)。とまれ、「神童・天才」というと、一般に使われている言葉なので、誰でも「意味を分かっている」と思う傾向があるのです。しかし天才の研究書物を見ると、「天才と評価された人物を、あとから分析する」訳で、その結果からすると、ある人が天才とされるか天才と呼ばれないかの違いは、「偶然」が支配するとも言って極言ではないのです。つまり「天才・神童」は極めて主観的な概念で、誰でも意見を述べることができ、他者の見解に反論を書くこともできる概念なのです。学問的・客観的に「基準がない」に等しいので、こういうことになります。
それ故、神童と文化史的に認められている人物を神童の例に考えているので、例えば、「スポーツ選手」の神童というのは、文化史的に聞かないのです。従って、「神童の文化史」または「文化的現象としての神童」ということを項目として立てていたのですが、「通念としての神童」の説明もないとまずいので、一般論として、定義を書いています。本当は、定義は、「神童と呼ばれた人が歴史的に存在し、そのような人の持つ何か独特な特徴が、神童であるということである」というようなことなのですが、これでは説明に見えないので、通念の定義を記したのです。文化現象的な神童のありよう、定義を、簡単な定義文に入れるのは難しかったので、それは本文に譲ったというのがあります。英語版のような「神童」の記事を求めていられるのなら、それは、そもそも内容が違う……扱っている内容が、同じ「神童」であっても、異なるので、別の名の項目にするのがよいと考えたのです。その場合、「神童の文化史」とか「文化現象としての神童」とか色々考えましたが、短い方がよいので、「神童 (文化)」としたということです。
「ノート」を一緒に移動させなかったのは、記事が、「神童の文化史」であるという了解がないままに、疑問点というか、かなり見当違いのことを多く記されているので、敢えて一緒に移動させなかったというのがあります。Maris stella 2005年9月10日 (土) 16:34 (UTC)[返信]

少しですが、質問にも答えておきます。

  • また、哲学に神童は存在し得ないと言っておきながら後半でカントが神童と呼ばれなかった理由を「認知」とするなど、矛盾も多く見受けられます
  • これはわたしの「表現不足」か、または「あなたの読解力の不足」です。「カントはその知性の高さから言えば、突然、頭がよくなった訳でもなく、学生時代にも優秀な学生であったことからすれば、少年時代も「神童」と呼ばれるに値する知性の持ち主だったはずだが、そういう評判はなかった」という意味です。カントが「哲学の神童」だったと言っているのではなく、ここでは知性の高さからすれば、神童相当と言っています。しかし、カントは神童であったという話は聞かないので、カントを神童とはしていません。
  • 神童とは「知能の高い児童」ではなく、「才能の突出した児童」ではないのか。IQにこだわる意味があるのか。
  • 「IQ」は説明のために出しているので、知能の多次元性というのも述べています。「言語・空間・数的・行動・社会的」等の知能がある程度独立しています。別に「才能の突出した児童」でも問題ありません。「何故、才能が突出できるのか」と考えると、高次神経調整・統合機能装置と言える、大脳の機能性、広義の知能に帰着します。
  • 音楽と数学の分野にこだわる理由は何か。en:Child prodigyを見ると多くの分野に神童が現れているが。
  • 英語版でも、やはり神童の「分野」は有限です(そして、翻訳したように、数学・音楽・チェス・美術の分野に神童がいると書いてあります)。どんな分野にでもいる訳ではないのです。文化史的には、音楽・数学の神童が記録に残っているので、偏って見えるだけで、逆に英語版の、色々な分野に神童がいるという記述は、現代の現存する人、まだ子供である人まで列挙しているので、疑わしくなります。
  • 「特異才能と神童」例に挙げられている「直観像」(というか、これしか触れられていない)と神童との関連性は証明されたことなのか。
  • 特異才能を持つ児童は、必ずしも神童ではない、という話です。自閉症の子供に、異常な記憶能力とか計算能力等を示す例があるのですが(「イデオ・サヴァン」とも言います)、この大脳生理学的な基盤説明は、まだ不明です(わたしは知りません)。推定はあります。他方、直観像は客観的に認められている能力で、これを意志で制御して、見かけ上、もの凄いといえる「記憶力」を示した人の実例はあるのです。しかし、このような例は「神童ではない」という説明です。(直観像を使った「驚くべき記憶力の実現」は神童ではないが、大脳の可能性は多様で複雑で、数学や音楽の神童なども、大脳の特定部位か連合体の独特の使い方から来ているのかも知れないが、実証的には分かっていないので、書いていないのです。英語版は、少し踏み込んで書いていますが、わたしは疑問があるので、採用していません)。あなたは逆に、何か知っているのなら、何故、加筆しなかったのかと尋ねます。「削除依頼審議」でも書きましたが、何故、編集や加筆等せずに、このように、高所から物言うのでしょうか。よほど、あなたは偉い方なのでしょうか。
  • 「小説を書く神童というのは存在しないと考えられる。」考えているのは誰か。
  • わたしが考えているのです。しかしこれは主観的な臆断ではなく、確かに、12、13歳程度で小説を書く児童もいますが、問題は、それが文学的に評価に値するかです。12、13歳なら、わたしも短い小説なら書いています。児童の書いた小説で、文化史的に価値あるものとして伝わっているものが思い当たらないのです(つまり、児童の作文ではなく、作者を伏せて、一般読者が評価するような文学作品という意味です。有名な文豪で、全集が出るので、子供時代の作文・小説なども掲載されるというのは、三島由紀夫をはじめ、色々あります。しかし、やはり成人してからの作品とは、出来具合が違います)。何かありますか?(抒情詩は別です)。「考えられる」という表現は、十代はじめの子供の書いた小説は、現在出版としてあるはずで、同じ年代の子供が、素晴らしい、共感したとかいうのもあるので、「文学的価値」の主観的側面に立ち入らないよう、曖昧に記述した為です。うまく回避する方法があれば、「断定文」で書きます。
  • なお、「真性神童」等は、「神童 (文化)」のノートに説明しています。

その他にも質問がありますが、とりあえず、いまはここまでとします。Maris stella 2005年9月10日 (土) 16:34 (UTC)[返信]

英文を生のまま出しておくのもなんなので、科学的ぽい一部をざっと訳出しておきました。Child prodigyは「神童」prodigyは(話の内容上)「天才」と訳してあります。オリジナルのペーパーを読んでいるわけでもないので、ここに紹介されているのがどの程度重要な結果かわかりませんが。英語版のディスカッションではその点は問題視されていないようです。昨夜投げようとしたらエラー頻出でした(とほほ)NekoJaNekoJa 2005年9月12日 (月) 03:50 (UTC)[返信]

Maris stellaさんのこのノートの反論および神童 (文化)のノートを読ませていただきました。その前に、削除議論で存続が決まった直後の分割(?)の強行はやはり遺憾です。本来なら統合すべきでしょうが、事の経緯を考えると、やはりこの記事を削除して議論直後の状態に一旦戻すのが適切と思われます(この記事に限らず、他の削除依頼での模倣を許す事例になる可能性があるからです)。

さて本題ですが、Maris stellaさんの反論および意見を読んでも、「神童」を2つにわける必然性を感じることができませんでした。神童と[[神童 (文化)]]の違いは概念だと仰ってるようですが、私には2つの違いは同じ概念に対する「解釈」の違いとしか見えません。英語版から翻訳した神童も文化的現象概念であり、2つの記事を(文化)で分けるのは無理矢理と言わざるを得ないでしょう。
概念が違うということは、勿論、その言葉を使用している人々がその概念の違いを認識して(もしくは一方の概念のみを利用して)使われる訳ですが(一般的な「長期」と経済学上の「長期」のように)、「神童(child prodidy含む)」という言葉を使用してきた人々が、その2種類の概念に分けて使っていたとは思えません。[[神童 (文化)]]で神童と呼ばれてきたとする人々は、神童でも同じく神童と呼ばれてきたと言えるのです。神童と[[神童 (文化)]]とでの「神童」の「概念」は一緒なのです。ただ、その同じ「概念」に対する解釈に違いがあるだけなのです。
異なる解釈が存在する概念を記事化する場合は、同記事内で両論併記するか、一方の解釈を無視してより一般的な解釈のみで記述するかがWikipedia内での慣例と思われます。余りに特異で且つ単独記事を作るに値する解釈の場合は独立記事化される場合もあるでしょうが、その際の「単独記事を作るに値する」という条件は、「記事化するに値する規模の業界や団体で常に使用されていること」や「一部の知識人、学者等が提唱し、それに呼応してその解釈に絞って使用されていること」などでしょう。この私が挙げた条件ですら、独立記事化に反対して削除を求める人々もいるでしょう。そのくらい、単なる解釈の違いで2つの記事を作成するということはWikipedia内では異例なことなのです。
ましてや、[[神童 (文化)]]は、あなた個人の解釈という感はどうしてもぬぐえません。同じ解釈をしている(同じ概念を持っている)知識人がいるのならその人物の名前を挙げて頂きたく思います。
ということで、「神童」が2つの記事で説明されることは不適切と思います。よって先に書いたように神童を削除し、[[神童 (文化)]]を元の「神童」に戻すべきでしょう。「神童(現・[[神童 (文化)]])」の内容の反論への返答および編集は、この問題が終わってからにしたいと思います。Qazzx 2005年9月12日 (月) 11:57 (UTC)[返信]

「神童」を削除し、「神童 (文化)」を元の位置に戻しました。―غاز(Ghaz) 2005年9月19日 (月) 21:27 (UTC)[返信]