ノート:碁所

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碁所は自称?[編集]

江戸幕府発足当時に存在していた「碁方の取りまとめ役」までは自称ですが、寛文8年(1668年)に設けられた「碁所」は正式な役職であったと思います。手元の資料には「寺社奉行、○○を碁所に任命」などの記述が見られ、幕府より公式に与えられた職であることが分かります。219.161.159.157 2005年8月1日 (月) 07:39 (UTC)[返信]

将棋の家元である大橋家から古文書が見つかっています。それを調査した結果がまとめられていますが(『将軍家「将棋指南役」』ISBN 4896918916、「碁打ち・将棋指しの江戸」ISBN 4582841805)、これらによると「将棋所」は大橋家ら家元が自称したもので、正式の役職と認められていなかったとあります。--Tamago915 2005年8月1日 (月) 09:05 (UTC)[返信]
こちらでも調べてみました。将棋所は自称であったという記述は見受けられたのですが、碁所についてはそのような記述は見られませんでした。しかし、将棋所が自称で碁所は自称でないというのはおかしいですね。他の文献も探してみます。ちなみに、初代本因坊算砂が秀吉の時代に創始し、家康によって継承された「碁所」は、後の碁所とは違い正式な職制ではなかったということは、確かであることを記述しておきます。219.161.159.157 2005年8月1日 (月) 14:03 (UTC)[返信]
「正式の役職と認められていなかった」は私の勇み足で、役職としては認められていたが「将棋所」という名称はお上から与えられたものではなかった、というところのようです。おそらく「碁所」も同じであっただろうと推測されます。九代大橋宗桂が扶持を受け取るために手形に「将棋所」と書いたところ、そんな役職はないので「将棋の者」と書き直すようにと奉行に指図された、という記録も大橋家文書に残されているそうです。--Tamago915 2005年8月1日 (月) 14:21 (UTC)[返信]
延宝6年(1678年)の寺社奉行による道策への証書には「今般碁所被仰付候」となっており、また道策ー親雲上濱比賀の棋譜には「日本官賜碁所」と記載されており(ともに「坐隠談叢」)、「仲間内で名乗っていた名称」とは違うような気がするので、とりあえず外しました。更なる情報をお待ちしています。案外と奉行の裁量でいろいろ違ったりするのかも。ちなみに本文「この頃から〜」の根拠は、正保4年の算知ー算悦の対戦についての対局場を提供した太田資宗の言に依ります。--Sugitaro 2007年8月22日 (水) 16:30 (UTC)[返信]
(続報)「坐隠談叢」の記載で、享保元年に御城碁御城将棋が11月17日と定められたことを寺社奉行より通知された文書は「碁所将棋衆」宛とされており、「碁所」が官称、「将棋所」の名は使われていません。碁と将棋で名称が違っていたということのように見えます。--Sugitaro 2007年9月1日 (土) 05:14 (UTC)[返信]