ノート:真里谷恕鑑

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最近の文献では、真里谷恕鑑の実名は信保ではなく信清であるとするのが一般的ですので、とりあえず恕鑑の名称に変更しておきました。--Kangoshiyouichi 2010年2月22日 (月) 17:23 (UTC)[返信]

そもそも、武田氏の系譜上は信保は信勝の息子で、信清は弟ですので叔父と甥の関係になるので別人物です。系譜上の恕鑑は信保のことです。ところが、近年の研究では信清が兄の養子になって家督を継いで後に恕鑑と名乗った人物で、この人とは別に武田一族に信保を名乗った人がいたという見方もあるようです。ですので、現状のところ信隆・信応の父である恕鑑の実名は不詳で信清か信保のどっちかが同一人物と言う答えしか出ないと思われます。--水野白楓 2010年9月18日 (土) 00:50 (UTC)[返信]

水野さんの確認された「近年の研究」がどのようなものなのかは分かりませんが、私が参照した黒田基樹『戦国の房総と北条氏』においては、従来恕鑑の実名は系図などの注記などから「信保」とされていたのが、当時の史料の検討により、「信清」とすべきことが明らかとなったとされています。ちなみに系図上、「信保」の弟で真里谷朝信の祖父とされる「信清」について、黒田氏は実在を疑っているようです。黒田氏の説がまだ通説たりえていないとのことなら、書き方を少し変更しなければならないとは思いますがどうなのでしょうか。--Kangoshiyouichi 2010年10月9日 (土) 15:20 (UTC)[返信]
加筆部分の基本は千野原氏による戦国房総史の通史書として用いられている『新編房総戦国史』の上総武田氏関連記述とと同氏による人名事典『戦国房総人名事典』に依拠するところが大きいです。ただし、同氏の2書でも前書が「信保」、後者が「(式部入道)信清」を恕鑑と同一人物としており、後者には恕鑑とは別に「(三河入道)信保」が存在したと言う見解で書かれております(当然、10年弱の研究成果の反映がなされていると思われますが)。上総武田一族の研究は近年大幅に書き換わっており、ある程度の集約が出来るまでは実名の判断までに踏み込むのは難しいと考えました。あとKangoshiyouichiさんが黒田氏の研究を加筆されたことは大変ありがたいことだと思います。素人の思いこみだとお叱りになられると思いますが、黒田氏はどうしても後北条氏の研究家というイメージが強くてかかる著作があるのを存じ上げませんでした(お恥ずかしながら)。戦国の房総史の近年における研究と言うと、どうしても佐藤博信氏とか滝川恒昭氏とか千野原氏の印象が強くなってしまうのは当方の不勉強ゆえであると思われ、申し訳なく思う次第です。--水野白楓 2010年10月9日 (土) 16:51 (UTC)[返信]