ノート:真禅院

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真禅院の歴史について[編集]

「歴史」の項を全面的に書き改めましたので、その理由を述べます。この記事に限ったことではありませんが、「歴史」の項の記述は箇条書きオンリーではなく、できるだけ文章として記述すべきかと思います。それで、加筆のために調査してみたわけですが、この寺の歴史はかなり複雑であることがわかりました。この寺の歴史には「宮処寺」「神宮寺」「真禅院」という3つの寺院が関係しており、それらの関係を整理する必要があります。もともと神仏習合だった南宮神社から「仏」の部分が分離して現在地に移り、「真禅院」となったのは明治時代初期ですが、それ以前にも南宮神社内に真禅院という僧坊があったことが古図から確認できます。(絵図は [1] [2]を参照) また、奈良時代に行基が創建したとされる前身寺院の宮処寺については、垂井町内に県史跡の宮処寺跡という古代の寺院跡があることは確認できましたが、これがイコール南宮神社の神宮寺かというと、確証はないようです。(たとえばこちらのサイト [3]を参照) 聖武天皇が宮処寺に行幸したことは『続日本紀』に記載があり、史実と認めてよいと思いますが,その宮処寺が現・真禅院の直接の前身かというとどうも違うようです。平将門調伏の件は、史書に記載があることから、少なくとも調伏が行われたことは史実のようです。しかし「行基によって創建」というのは日本各地の寺院創建縁起に普遍的に見られるもので、伝承の域を出ないと思われますし、「最澄が神仏習合の寺にした」というのも、宗祖に仮託した伝承と思われます。このへんもどこまでが伝承で、どこまでが史書や発掘調査から確認できる史実なのかを明確にしておく必要があります。Urania 2007年5月26日 (土) 07:16 (UTC)[返信]