ノート:田沼時代

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ブライト・西氏の編集内容に関して[編集]

ブライト・西氏の最近の編集内容に関して意見を述べます。まず、内容が誤っているとは言いません。が、文章構成を理解できていないです。まず、氏が大幅に加筆された内容は、田沼意次の記事に書くべき内容です。ここはあくまで「田沼時代」という「時代」の説明が主であって、「田沼意次」という「個人」の説明が主ではないのです。田沼時代を説明する上で、どう評価が変遷したのかという話題の中において、意次個人の評価の変遷などにも触れているのであって、そこで意次個人のことを多く書いてしまったら文章の主従が逆転してしまいます。なお、「田沼時代の期間と意次が権力を握った時期」の節は一見すると意次個人の説明が主にも見えますが、これは田沼時代という範囲を説明する上で、意次の権力史に言及しなければ説明できないからしているのです(あくまで主は「時代」の説明)。

また、一般(俗説含む)と学説の違いも理解していただきたいです。現状、アカデミックには既に虚偽や俗説扱いされているからといって、一般にはそういう論やイメージが残っていることを除去する理由になりません。むしろ、一般にはこうだけど、学説としてはこうだよ、という形式で説明をしているので、そこで一般の方を考慮なく削除してしまっては意味がなくなります。

最後に、今、数分前に編集された「出典の記載の内容と書かれた本文の内容に差異があった」も認識が誤っていて、これは最初に述べていたことと逆に、軽く意次個人について言及している箇所であって、ここで時代について詳細に述べてしまうと構成がおかしいです(田沼時代に対する認識が変わったは前のパラグラフで既に説明しているのだから)。また、内容が誤っているというけど、元文は4ページ目のしかし第二次大戦後は~(特に意次像が大きく動いたのは~)の辺りです。「つつある」が気に障るなら、大石慎三郎研究以降一般レベルでも認識が再評価されていったと過去形でもいいです。

文章全体から見たり、あるいはパラグラフ単位で見たり、それが時代を主に説明しているところか、あるいは意次個人のところか、それを念頭に置いてください。そして意次個人なら、それを詳細に書くなら、田沼意次の記事に書くべきです。--EULE会話2020年7月18日 (土) 16:48 (UTC)[返信]

西です。上記の件了解いたしました。ですが、戻された”一般には伝統的な緊縮財政策を捨て、”の件ですが、後ろに藤田覚などの研究者が田沼が緊縮政策をしていたと記載していると付けてもよろしいでしょうか?--ブライト・西会話2020年7月18日 (土) 18:15 (UTC)[返信]

ご返答ありがとうございます。途中で訂正された内容を見ると、「一般(俗説含む)と学説の違い」と述べた部分に後から気づかれたと思いますが、その上で「この時代の特徴として~(中略)~賄賂政治の代名詞としても有名」の部分はあくまで一般(非専門)あるいは、過去の通説から見た場合の記述です。だから出典も専門書ではなく辞書の類になってますし、「取ったとされる」と一歩引いたような語尾になってます。専門分野(学説)の観点は、その次のパラグラフにあって、「また、重農主義の否定や商業資本が初めて用いられたという一般的な説も厳密には正しくない。」という部分が、氏が記載したいという部分になると思います。
削除されてしまいましたが、氏がおっしゃるように、現代においても未だ意次が緊縮財政策を取らなかったかのように記述する専門書などない(してあったら専門書と呼べない)のはその通りだと思いますし、ただ、それは「重農主義の否定(実際には新田開発してる)」や「商業資本が初めて用いられた(実際には享保期)」という点も同じだとおわかりいただけるかと思います(「それまで見られなかった商業資本の利用」だって同じですよ。商業資本の利用は享保期でやってるのですから)。よってこの部分に緊縮財政策なども入れればよいかと思います。--EULE会話2020年7月18日 (土) 22:42 (UTC)[返信]
再度、今回の取り消し理由について述べます。本論として、もともと田沼時代の評価については田沼意次の評価や人物像と混同されてきた歴史があります(意次個人が時代風潮を作ったかのような一般認識も含め)。それは本文でも出典付きで何度か言及しているものです。時代風潮と人物像がセットで考えられてきたからこそ、実は汚職の人物でもなかったと言及することは、田沼時代の理解や認識について重要な要素であってその画期となったのが大石なのだから、それに言及するのも意味がある。しかし、それ以降の大石研究についての異論や、人物像の研究史について詳細に記述しても、それによって田沼時代に対する認識や理解が大きく変わるわけではないから不要だと述べています。
もともとのこの大石の研究への言及だって、かなり端折ってるのはお詳しいなら、わかると思いますが、ここにあるのはあくまで抄版ですよ。田沼意次の記事には詳細に記述があって(メイン)、こっちには抄版(サブ)がある。どちらにもメインがある必要はないし、片方に記述があれば片方がなくても良いというものでもないです。--EULE会話2020年7月23日 (木) 04:18 (UTC)[返信]