ノート:王朗 (曹魏)
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削除した記述について
[編集]根拠が不明等の理由で削除した部分が多かったので、削除理由を記しておきます。こちらの判断に誤りがあればご指摘を、記述を復活させる際は正しく出典の明記をお願いします。
- 王朗は時の皇帝に奉った上奏文を高く評価されて→上奏文を書いたのが王朗とは書かれていませんし、使者になったのは趙昱です。
- 周辺の豪族を糾合しうる人物である王朗は第一の標的となった(「孫破虜討逆伝」)→「周辺の豪族を~」の出典が不明です。孫破虜討逆伝には、王朗の名前すらほぼ出てきません。
- 呉の張昭や蜀の許靖とも文通し、連絡を取り合っていたという(「張昭伝」「許靖伝」)→張昭と文通したという記述は、張昭伝にも他伝にも見えません。許靖との文通については、友人であることを前述したので省略。
- 諸葛亮は手紙により降参を勧めてきた王朗に返事をださなかったものの、それに反論する形で『正議』を著した→何故、評価の項に書かれているのか不明です。
- 後に「後出師表」において、孫氏に揚州を席捲することを許した人物として劉繇と共に王朗を名指しで批判した→後出師表はその信憑性が疑問視されています。王朗の評価として言及する必要はないかと思います。
- 逸話での王朗→世説新語は小説集に過ぎないので、小説での王朗として演義とまとめました。
--鳴海 2011年8月18日 (木) 08:06 (UTC)
- 編集お疲れ様でした。念のために申し上げますと「小説」には"novel"に相当する「文学の一形態たる散文形式の創作物」という今日的な意味の他、「前近代中国における逸話集」という意味もあります。ゆえに『世説新語』の定義として「後漢から東晋までの名士の逸話を収めた小説集」[1]といい、また「漢末から東晋までの人物を中心とする逸話集」[2]といいます。『三国志演義』とは違う意味での「小説」ですね。史料的価値にも自ずと差があるわけです。もちろん「小説」の語句に以上のような複数の意味があることをよくご理解なさった上で編集されたものと思いますが、ついさっきまでの私のように「小説」の意味をよく知らない人が「小説での王朗」の節を閲覧すると、「『三国志演義』も『世説新語』も(今日的な意味での)小説なんだ」という誤解をしてしまうかも知れません。『三国志演義』と『世説新語』とを十把一絡げに「小説」として同じ節に入れることには慎重であるほうがよさそうですね。--119.10.233.133 2011年8月25日 (木) 12:45 (UTC)
- 確かに『三国志演義』と『世説新語』を「小説での王朗」と一まとめにするのは問題があったかもしれません。ご指摘感謝します。『世説新語』での王朗の件はまず創作と思いますので、私としてはそれを意図したかったのですが、そう断言出来るわけでもないので……「史書以外での王朗」とでもするべきでしょうか。--鳴海 2011年8月25日 (木) 13:07 (UTC)
家族の名前を省略する記述
[編集]三国志の登場人物の記事において、家族の姓名を省略しようと編集されているIPユーザーの方がいらっしゃいますが(子の王粛は司馬昭に娘を嫁がせている→子は司馬昭に娘を嫁がせている)、どこかでそのような方針が決まっているのでしょうか? 個人的には分かりづらいだけだと思うのですが。--narumi(会話) 2014年1月11日 (土) 05:27 (UTC)