ノート:熊野神社 (高島市)

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質問:「熊野三山」と関係はない?[編集]

記事を拝見しましたが冒頭部の記述に疑問があります。

(1) 冒頭に「熊野神社と称するが、いわゆる熊野三山との関係はない」とありますが、どういう意味でしょうか。記事中に挙げられている祭神を見る限り、「無関係」と言えるのか疑問があります。

(2) 中世以降に熊野三山から全国に勧請された熊野神社の系統ではなく、出雲熊野大社の系統の神社だと言うのであれば明快です。しかし、そうであるならば、その旨を単純に明記すればよいだけではないでしょうか。わざわざ「熊野三山の系統ではない」などと分かりにくい書き方をする必要はないはずです。

(3) 前記の質問の答えの内容の如何にかかわらず、出典を知りたいのですが、どのような文献にもとづく記述なのでしょうか。

以上、お答えいただけるでしょうか。--ikedat76 2009年3月1日 (日) 06:26 (UTC)[返信]

  • 差し出がましいようですが横からコメントさせていただきます。(1)(3)について、『日本の神々』(白水社)によりますと、上古賀の熊野神社のご祭神を『大日本史』神社志が物部連の同族である「熊野連」(『旧事本紀』や『姓氏録』(右京神別下)に載せるそうです)の祖神にあてたり、『神祇志料』が「味饒田命」(上記『姓氏録』に載る饒速日命の孫で熊野連の祖)とし、『神名帳考証』(信友の?)が「饒速日命」としていることを挙げ、他の2社が「熊野久須比命」とするのは「三社を紀州熊野と結びつけた説であろうが、この三社は紀州熊野の分社として成立したものではなく、たぶん熊野山(饗場野台地の旧称 引用者註)の地主神であり云々」と述べています。なお、『式内社調査報告』(皇學館大學出版部)では、紀州熊野三山系のご祭神に対し、神祇考証関係の諸書では上掲「熊野連」の祖とするものが多い点を紹介しつつも、現在の状況は熊野信仰と関係を持つものであろうとしています(取り急ぎのため、不備な点はご容赦願います)。確かに記述内容に改善の余地はありそうですね。ついでですが、告知テンプレートの存在を初めて知りましたことに感謝します(どうでもいい)--胡亂堂 2009年3月1日 (日) 09:16 (UTC)[返信]

コメントありがとうございます。ちょっと整理してみると、高島市の熊野神社は

  • 熊野連や現地の旧地名や地主神に起源があるもので、熊野三山とは関係がない(『日本の神々』『式内社調査報告』)
  • ただし「現在の状況」では、熊野三山と関連したものである(『式内社調査報告』)

ということでしょうか。

熊野といえば熊野三山と連想がまず働くという状況を考えると、その辺りちょっと丁寧に説明したほうがいいのかもしれませんね(興味深いところでもあります)。--ikedat76 2009年3月1日 (日) 09:45 (UTC)[返信]

念のため、胡亂堂さんご指摘の文献は下記の2点で間違いないでしょうか。

  • 谷川健一編、1986、『日本の神々 - 山城・近江』、白水社(日本の神々5) ISBN 4-560-02215-1
  • 式内社研究会編、1981、『式内社調査報告 - 近江国』、皇学館大学出版部(式内社調査報告12)

ご確認まで。--ikedat76 2009年3月1日 (日) 09:52 (UTC)[返信]

  • 舌足らずな箇所や誤記がありました。申し訳ありません。仰有るとおり上掲文献です。それと『姓氏録』は右京神別ではなく、山城神別(3氏目)でした。私なりに整理しますと、起源に於いては熊野三山と直接の関係はないが、後世熊野三山と習合した、もしくは熊野信仰を受容したということになるのではないでしょうか。「直接の」と申しましたが、熊野連の祖とする味饒田命(うましにぎたのみこと)は『天孫本紀』によりますと、饒速日尊の子神で、異母兄神にゴトビキ岩で著名な高倉下命がいますので、無関係ではなさそうです。佐伯有清氏も『新撰姓氏録の研究 考証篇第三』(吉川弘文館、1982)で、熊野連の氏名は紀州熊野に因むものであろうと考証しております。ちなみに、栗田寛は『新撰姓氏録考証』において、『続南行雑録』という書に、本宮大社の社人和田氏は本姓熊野氏で、高倉下命を祖神とすると紹介しているようです(佐伯前掲書の孫引きですので確認できませんが)。いずれにせよ興味深く、本腰を据えてみたい問題ではありますね。--胡亂堂 2009年3月1日 (日) 10:36 (UTC)[返信]
  • (追記)尚更訳が分からない記述になりましたので、現段階での私見をまとめると、
  1. 当初の高島市熊野神社は熊野連氏が熊野山に奉斎したものらしいが、その氏名・地名・社名は紀州熊野に因んだものである可能性がある。
  2. いつのころからか熊野三山信仰を受容したが(御師の影響?)、或いは熊野連氏が紀州熊野に因む氏族で、その祖神も紀州熊野に因むという伝承なりが残存して意識的に受容したかも知れない。

ということになるでしょうか。--胡亂堂 2009年3月1日 (日) 10:47 (UTC)[返信]

余計な一言と思いつつ、念のため。「私見」ではなく、文献で裏付けのとれることのみに限定しましょう。
通常、「熊野三山と関係がある」といった場合、熊野信仰との関連でなおかつ史料的裏付けのある史実があることを指すように思われます。“祭神のきょうだいが…”というのは、まあ分かりますが、それを言い出すとどんな神社もみんな関係あることになってしまいが、それはちょっと(汗)。
とりあえず、文献を確認してみたほうがよいようです。これ以上は、現段階で何かを言うのはちょっと無理がありそうです。初版を作成された方にも知らせてあるので、その方からも説明を聞いてみたいところです。ともかくもすばやい反応、ありがとうございます。--ikedat76 2009年3月1日 (日) 14:10 (UTC)[返信]
  • Ikedat76さん、胡亂堂さん、ありがとうございます。記事は、式内社調査報告と神主さんからのお話を参考にしています。神主さんの話では、神社名は熊野山という地名から取ったもので、熊野三山とは関係ないんですとの話でした。文献で裏付けのとれることということであれば、この部分は削除します。ただ、滋賀県の神社を取材させてもらっていますが、「明治の明細帳を作成するときに役所から訂正を求められて、元の祭神は◎◎です。」という話をよく聞きます。つくづく取材の難しさを感じます。--山重 2009年3月1日 (日) 14:46 (UTC)[返信]

山重さん、コメントありがとうございます。「神主さんからのお話」だということだと、確かにちょっと情報源として厳しいです。ただ、祭神や信仰の系統が歴史上、どういう経緯でどのように変化してきたのかというのは興味深い話ですし、ただ削除してしまうのは惜しいように思います。郷土史とか市町村史といった方面の文献を探して、その辺りの事情を加筆してみてはいかがでしょうか。興味深そうな点ではありますが、地元の方でないと資料や情報源へのアクセスが難しい(当方、関東在住です)ところですので、ご検討いただけるとさいわいです。--ikedat76 2009年3月1日 (日) 15:13 (UTC)[返信]

    • ikedat76さん、ありがとうございます。裏付けられる史料が見つかればよいのですが。私は宮座について調べている途中で、いろいろな人から話を聞いているのですが、この熊野神社については私も興味を持っています。「熊野山」と「熊野本(くまのもと)」という地名が残るほか、熊野山への入山を巡っての「木津荘」と「善積荘」の争いの古文書の中に断片的に記事が残っているようですが、私蔵のものとのことで残念ながら見せてもらえませんでした。今回は緩やかな表現に改めておきます。また、記事の精度を増すように調査を続けてみようと思います。この度は、ご指摘をいただきありがとうございました。--山重 2009年3月2日 (月) 12:46 (UTC)[返信]
      • ご対応ありがとうございます。私自身熊野信仰周辺の記事を書いている(ちっとも進んでいないけれど…)もので気になってこのような質問をした次第です。不躾な質問にもかかわらず丁寧に応答していただき恐縮です。今後の調査と執筆に期待しております。記事冒頭のテンプレートも撤去しましたのでご確認ください。--ikedat76 2009年3月2日 (月) 16:22 (UTC)[返信]
      • 当方も期待しております。滋賀県は宮座調査の宝庫ですから、そちらの調査にも期待大です。とゆうか、羨ましい限りです。(←基本的にアームチェアー・・・)--胡亂堂 2009年3月3日 (火) 13:37 (UTC)[返信]