ノート:溝口重雄

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生年について[編集]

初版投稿者です。溝口重雄の生年について、『寛政重修諸家譜』では寛永10年とあり、また「溝口家譜」(東京大学史料編纂所蔵、『新潟県史』資料編8に翻刻あり)でも宝永5年に76歳で卒とあることから、逆算すると寛永10年となります。この版で寛永9年7月10日生まれとの変更がありましたが、私が把握していない典拠がおありと思います。是非ご教示ください。公刊されている基本的な資料と矛盾しますことから、あるいは注記が必要になるかとも思われます。--Kwappa 2006年11月2日 (木) 17:09 (UTC)[返信]

寛永9年に変更した者です。その掲載元は『藩史大事典』(雄山閣)だったと思います(以前調べた時に引き写しておいたものなので、確実かどうか今すぐには確認できませんが)。また、調べてみたところ、ここでも同様に寛永9年7月10日生まれと書いてあります。これらの記載には元の史料があると思われますが、それが何の史料なのか現時点では申し訳ありませんが分かりかねます。--松茸 2006年11月3日 (金) 01:51 (UTC)[返信]
了解致しました。ありがとうございます。私も少し資料をあたってみます。場合によっては複数説を併記して注記を付しましょう。--Kwappa 2006年11月3日 (金) 02:00 (UTC)[返信]

インデント戻します。若干検討した結果をお知らせします。

  • 新発田藩が編纂した「御記録」(『新発田市史資料』1に翻刻あり)では、巻之三寒廟紀(3代宣直の伝)の癸酉十年(寛永10年)七月十日の項に「世子君御誕生」とあります。
  • その他『寛政重修諸家譜』、『寛永諸家系図伝』、「溝口家譜」など江戸期に編纂された家譜では、すべて寛永10年生まれと明記されるか、または年齢から寛永10年生まれと逆算できる記載がなされています。
  • 『新発田市史』上巻においても寛永10年7月10日生まれと記載されています。
  • 現代に編纂された事典類でも、『藩史大事典』(雄山閣)、『国史大辞典』(吉川弘文館、「溝口悠山」で立項)などほぼ寛永10年生まれとしています。
  • 管見の限り寛永9年7月10日生まれとしている唯一の事典類は、『三百藩藩主人名事典』(新人物往来社)でした。松茸さんが見られたのはおそらくこちらではないでしょうか。
  • ただしこの事典で溝口重雄の項の典拠としている『新発田藩資料(新発田市史資料)』『新発田市史』いずれもが寛永10年としていますので、同事典の誤記・誤植の可能性が高いと考えられます。そしてこの事典を典拠とした他の記載で寛永9年となっているものがある可能性があります。

以上の通りです。さてここから考えますと、寛永10年の方が蓋然性が高く、現状では複数説を併記するだけの根拠に乏しいと判断されます。したがって申し訳ありませんが寛永10年に記載を戻したいと思います。ご了承ください。もちろん今後寛永9年説を裏付ける根拠を確認できましたならば、当然両論併記をして行きたいと考えます。--Kwappa 2006年11月7日 (火) 09:13 (UTC)[返信]

確認したところ、確かに私が見たのは『三百藩藩主人名事典』の方だったようです。それで、ここまで寛永10年記載がありますと、それはほぼ確実と言っても過言ではないでしょうね。どうも調査お疲れ様でした。--松茸 2006年11月9日 (木) 08:00 (UTC)[返信]
ご丁寧にありがとうございます。少し考えたのですが、『三百藩藩主人名事典』はさすがに公刊されている文献で利用者も多く、今後同様の疑念が生じないとも限りませんので、本文に注を付することとしました。--Kwappa 2006年11月9日 (木) 08:57 (UTC)[返信]