ノート:渡邉邁

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松本暢に関する記述について[編集]

幕末壬生藩の医師で明治初年に新政府の司法官となった松本暢(旧名石崎誠庵)が、記事の主題である渡部邁と同一人物として扱われていますが、天保3(1832)年生、明治22(1889)年没で明治4年から明治9年まで司法省に在職した松本(『下野勤皇列伝 後篇』、旧版『栃木県史 巻十三』。旧版『栃木県史 巻十七』が栃木県富田の如意輪寺にある「正五位松本暢君之墓」碑銘を掲載)と、天保13(1842)年生、大正3(1914)年没で明治4年から明治14年まで栃木県に、明治14年から明治24年まで会計検査院に在職し、明治26年に日光二荒山神社宮司となった渡部(『栃木県人物編』、九大コレクション蔵書印画像。谷中霊園にある「従六位渡部邁之墓」を紹介する個人サイトあり)は、壬生藩を脱藩した医師という共通点があるものの生没年・官歴などが全く異なっており、さらに脱藩した渡部が中津川で松本暢に面会したとの記述が『栃木県人物編』にあることから明らかに別人です。

※この記事が渡部と松本を同一人物と見なしているのは、渡部が「石﨑正倹」を名乗ったとする九大コレクション蔵書印画像の注記と、松本の別名を「石崎正倹(省庵)」とする『栃木県医師会史II』7頁の記述が根拠のようですが、両文献には渡部と松本の関係について直接的な記述があるわけではなく、同姓同名を名乗った可能性は読み取れても同一人物と断定することはできませんし、『下野勤皇列伝 後篇』『栃木県史 巻十三』『栃木県人物編』の記述をふまえた上で同一人物と見なすことは困難です。

このため、本記事から松本暢(石崎誠庵)に関する記述を除去することを提案いたします。--庚寅五月会話2022年8月11日 (木) 07:32 (UTC)[返信]

報告 提案から2週間が経過しましたが、異議がありませんので除去を行いました。--庚寅五月会話2022年8月25日 (木) 14:05 (UTC)[返信]