ノート:清浄光寺

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要出典を貼られた箇所、大橋俊雄『一遍と時宗教団』P129〜132によります。--Sugitaro会話2012年10月13日 (土) 03:13 (UTC)[返信]

編集された本人様ですね。ノートページではなく本文の脚注に文献(できれば第何章とか)を表示して下さるとありがたいです。新田義貞の鎌倉攻め以前の事なんだろうか?以前は藤沢清親が土地を持っていたとかいう説があったのですが藤沢の地名の元かも知れないですね。--59.166.10.102 2012年10月13日 (土) 07:05 (UTC)[返信]
文献は既に記事中に示してあります。脚注化する箇所がどことどこにご所望か分かりませんので、御自身で出典に当られるのがいいと思います。疑問提示された点も含めて。--Sugitaro会話2012年10月13日 (土) 08:45 (UTC)[返信]

「藤沢四郎太郎に土地を提供されて西富に移った。以後、この寺に独住するようになった 遊行上人を藤沢上人と称するようになる。」について[編集]

藤沢の地名が藤沢次郎清親の苗字からだ(それ以上前から藤沢という地名だった)とする説(清浄光寺のすぐ隣の感応院の由緒)(『我がすむ里』文政十三年、『鶏肋温故』天保十三年)に話が似ていますが、清浄光寺に土地を藤沢四郎太郎が提供したことを確証できる史料はありますか? 清浄光寺の史料(梵鐘)には藤沢に開山したとあり、開山以前から藤沢という地名であって、それで藤沢道場、藤沢上人を称したのではないのですか?--116.65.49.67 2013年4月12日 (金) 14:57 (UTC)[返信]

土地の提供について上に記した出典によりますが、特に史料は示されていません。遊行上人を引退して藤沢に住むと藤沢上人と呼ぶというのは、出典として挙げてませんでしたが、高野修、遠山元浩『遊行寺』(清浄光時で買いました)によります。名前の由来が藤沢四郎によるというニュアンスは含んでいないと思いますが、文章は直した方が分かりいいかもしれないですね。--Sugitaro会話2013年4月13日 (土) 01:59 (UTC)[返信]
情報(参考として) 藤沢四郎太郎説と藤沢(地名)の清浄光寺起源説 遊行寺ホームページでは寺の名が地名になったとしています。 http://www.jishu.or.jp/yugyouji_home.htm  藤沢四郎太郎説の参考として、大和市のホームページ『『将軍足利尊氏充行下文』と高座郡和田・深見郷について』大和市史研究 第3号(1977年3月)。 http://www.city.yamato.lg.jp/web/content/000001953.pdf  別の説 『藤沢市ブックレット2 藤沢と遊行寺』高野修 藤沢市文書館 2010年には、地名が道場の名に付けられた(25項)。領地を足利尊氏から寄進された伝承がある(33項)と記述されていました。 藤沢市のホームページ 地名の由来 http://www.city.fujisawa.kanagawa.jp/hisho/page100015.shtml には、藤(植物)、 藤沢次郎清親、淵沢の説が挙げられています。--116.65.49.67 2013年4月28日 (日) 06:01 (UTC)[返信]

小川泰二『我がすむ里』(文政13年)、平野道治『鶏肋温故』(天保13年) にも、足利尊氏が領地を寄進したという古文書があると記述されています。『『将軍足利尊氏充行下文』と高座郡和田・深見郷について』(大和市史研究 第3号 1977年3月)には、藤沢四郎太郎は、元弘3年の楠木攻めに参戦した京都警固の武士であるが、当麻寺に現れた四朗太郎だと断定できないとされている。以上から藤沢四郎太郎が清浄光寺に領地を寄進したというのは史料がなければ藤沢次郎清親や足利尊氏の伝承から作った仮説であると考えることができる。--116.65.49.67 2013年5月5日 (日) 04:06 (UTC)[返信]

なるほど。そういうことであれば両論併記でいいと思います。「〜光徳と呼ばれる場所にあったが、その後西富に移った。これは足利尊氏に領地を寄進されたと伝承にあるが、藤沢四郎太郎によるという説もある。」てな感じでどうでしょうか。--Sugitaro会話2013年5月8日 (水) 13:39 (UTC)[返信]