ノート:涿鹿の戦い

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「中国文明ルーツプロジェクト」をよりどころにした史実性[編集]

「中国文明ルーツプロジェクトにより(中略)脚色はあるもののモデルとなる「何か」があったのではないか」という加筆がなされました。加筆した当人はそのままそうだと思っているのでしょうが、まっとうな歴史学の見地からはとうてい認められない説だと思います。問題の「プロジェクト」は中国政府によって推進されたものですが、政府が認定と歴史事実は別物です。殷より前に何かがあったのは間違いないです。しかし、その何かについては何の伝承も残らず、夏については戦国時代の人が自分の想像で書いた、という可能性もあります。その場合、「何か」と「夏」の関係は、史実と歴史小説の関係より遠いということになりましょう。それが、日本の歴史学からの認識だと思うのですが、どうでしょうか。

中国における中国史研究が違うというのはわかります。しかし、政府公認の歴史と、ウィキペディアに記すべき歴史は、区別しなければなりません。日本史において、政府機関が認定した天皇陵をよりどころに、その天皇の実在を論じることができないのと同じです。「中国文明ルーツプロジェクト」をよりどころにして「有力」や「あったのではないか」と書いてはならないと思います。しかし、政府公認の歴史を、政府公認のものとして留保をつけつつ記述するのは、良いことだと思います。中国文明ルーツプロジェクト(中華文明探源工程)の成果そのものを、段落分けして書くのは許されると思います。--Kinori会話2020年4月1日 (水) 03:05 (UTC)[返信]