ノート:海野平の戦い

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『加沢記』の言及を除去しました[編集]

この加筆の『加沢記』に関する部分を除去しました。

一連の加筆は利用者:Hardworkmonkey1117さんによって行われました。かなりの部分に『真田三代 幸綱・昌幸・信繁の史実に迫る』が出典として示されていますが、この『加沢記』の下りには出典がありません。

こちらで『加沢記』を閲覧することができます。1巻の最初の章が関連部分と思います。(図書のページ数で言えば4-6、デジタルコレクションのコマ番号でいうと11から12です。)四頁の終わりあたりからが、肝心な部分です。

が、ここ、「天文10年12月下旬」に海野一族が村上義清の葛尾城を攻撃した、という話です。天文10年5月の海野平の戦いとは、半年のズレがあり、なにかヘンです。。。(海野幸義が討ち死にしているので、同一の合戦の記述だけども日付がおかしい、ということかも。)

海野勢力は「2000余騎前後」。村上義清は、「2000余騎」+室賀「1500余騎」+後備「2000余騎」=「都合5000余騎」とあります。ただ、軍記物での「騎」は注意が必要でしょう。「1騎」=4人(騎馬武者&従者)と数えるのが歴史学の常道のようでもあります。また、『加沢記』に書きましたが、そもそも同書は兵数に関しては誇張が疑われるようです。

いずれにせよ、一次史料『加沢記』を中途半端に引き合いに出すべきではないと思います。適切な二次以上の情報源が『加沢記』を引き合いに出しているものをもってくるべきでしょう。--柒月例祭会話2018年12月22日 (土) 14:01 (UTC)[返信]