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ノート:浅利頼任

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記事検証の要請

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本記事は、利用者:蝦夷の防人会話 / 投稿記録 / 記録氏=利用者:徹夜グミ会話 / 投稿記録 / 記録氏の多重アカウントとしてブロックされています=によって立項されたものです。google検索がすべてというわけではありませんが、戦国武将といういわばメジャーな素材で、比内浅利氏や秋田県の城郭について扱ったウェブサイトも少なからずあるにもかかわらず、また浅利氏研究の著名な書籍に名が登場しエピソードを持つと主張されているにもかかわらず、「浅利頼任」なる人物がwikipedia関係以外で一切検索にかからないのは奇妙なことです。立項者のアカウントによる最初の投稿が記事破壊([1])であったことを鑑みるに、虚偽記事の可能性があります。検証を依頼します。--桂鷺淵会話2016年5月8日 (日) 12:44 (UTC)[返信]

タイミングよくたまたま国会図書館に行ったので調べてみました。
  • 鷲谷豊「秋田の中世・浅利氏」(無明舎1994)には浅利頼任という人物のことは載っていなそうです。浅利則頼(天文19年没)は息子の浅利則祐(永禄5年没)より先に亡くなっているので浅利頼任が則頼に怒られたと言うエピソードは変ですし、一族には似た名前の人が多いので取り違えたのだとしても、浅利氏自体が小大名でいくつかある史料も信が置けないと現代の研究者も嘆いています。ほかに
  • 大島正隆「北奥大名領地成立過程の一断面」『東北大名の研究』小林編
  • 武田光弘編集『浅利一族』
などと言う文献にも当たりましたが、浅利頼任という人物のことは見つかりません。小大名と言っても一族ともなると何十人もいるわけで、浅利一族の中に浅利頼任という名前の人物がもしかしたらいたのかもしれませんし、あることを証明するのは容易でもないことの証明は難しいわけですが、しかしここに記されているエピソードは浅利氏滅亡史とくらべても違和感があります。虚偽の可能性は否定できず、少なくとも百貨辞典に掲載するべき裏づけが示されておらず、国会図書館で半日調べても見つけることができなかったわけで、少なくとも独自研究や特筆性の点で芳しくない記事であると考えます。--ぱたごん会話2016年5月9日 (月) 11:32 (UTC)[返信]
ぱたごんさん、調査おつかれさまでした。大変ありがとうございました。示された出典は虚偽であり、記述されたようなエピソードを持つ浅利頼任という人物の実在については疑わしいと言えましょう。虚構記事として削除依頼(Wikipedia:削除依頼/浅利頼任)を提出いたします。--桂鷺淵会話2016年5月10日 (火) 00:02 (UTC)[返信]