ノート:法 (仏教)

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改めて見て「法務省」関係の「法」って無かったのか(笑)
そもそも「法律」という言葉自体が「律」も含めて仏教用語だったな・・・Adacom

あいまいさ回避のページにするか、同一語源だとしてまとめて記述するか、いずれにしましょうか?Falcosapiens 02:23 2003年8月5日 (UTC)

内容はごめんなさい、よくわかりませんが、太字は普通の字の中にぽつんぽつんとあるから目立つのであって、あちらこちらにあると、かえってどこを強調したいのかが不透明になるという性質があります。この文章は残念ながら、その本当に典型的な好例になってしまっています。強調したいならば太字のほかにも「」、『』、改行などいくつもテクニックがあります(もちろんこれらも多用すると強調性が損なわれる点は同様)。G 02:50 2003年8月5日 (UTC)

ふむふむ‥‥じゃなくって、ちょっと煩わしいかなとは思ってたんです。調整してみます。booze 10:32 2003年8月5日 (UTC)

編集提案[編集]

仏教における「法」の項目の次に、下記の文を載せたいと思います。

返信 中村説なのでそのように明記した編集をお願いします。--Ryo 625会話2021年2月24日 (水) 18:47 (UTC)[返信]
上の方にあったので、見逃していて返信が遅れました。無我の項目でも書きましたが、中村説という出典の根拠がない以上、中村説という言葉は使用できないと思われます。そうした出典があれば、教えていただきたいと思います。--Tokinokawa会話2021年3月15日 (月) 05:19 (UTC)[返信]
返信 出典がほぼすべて中村元であるからです。他にダルマを人格視しているなどの説を唱えている学者を教えて頂けるでしょうか?--Ryo 625会話2021年3月15日 (月) 05:45 (UTC)[返信]
出典についての尺度は個々人で違うようですので、私自身の尺度としましては、どこかで中村説について論じている書物があればそれからその語を使用するのがいいのではないかと思っています。返信を拝見して、特にそうした出典は見当たらないようですので、そこで、内容ではなく、分類が問題になっているというところから、変更の方はRyo 625さんにおまかせしようかと思います。出典が明確であれば私自身が変更したほうがいいのでしょうが、それも出来かねますので、一旦提案文を本文に移行したのち、改めて、私ではなく、Ryo 625さんの方から編集してもらうことにしたいと思います。以上よろしくお願いします。--Tokinokawa会話2021年3月17日 (水) 11:36 (UTC)[返信]

初期仏教における「ダルマ・法」[編集]

「ダルマ」という語は、多様な用いられ方をするようになったが、初期においては、ゴータマの悟った宇宙の真理としての万古不易の法を指していたようである。[1]

悟達直後、最初の帰依者となった二人の商人は、「尊い師と法とに帰依し奉る」と語ったとされている。これはごく初期においては、「仏」と「法」のみが帰依の対象とされており、サンガに帰依することは入っておらず、サンガが成立した後も帰依の対象は二宝であり、三宝帰依となったのは後代のこととされている。[2]

ニルバーナを「ブラフマンの道」と呼んでいる場合[編集]

「正しくさとった人は、ブラフマンの道においてふるまい、心のやすらぎを楽しんでいる」(テーラガーター 689)の句において、ブラフマンの道とされているのは、解脱に至る道のことであるとされている。それは元は、『ウパニシャド』の哲学において、「ブラフマン世界に至る道」を意味していた。 [3]

梵天勧請の経文には、最高原理の人格的な表象として、この世の主であるブラフマー神というものが出てくる。この点から、ゴータマの悟達の境地と宇宙の最高原理を悟るということには、何らかの関係があると見ることができる。また、人格的な表象としての梵天による勧請の一段は、後世の追加とする見解もある[4]ので、ダルマに起因したと思われる内的な啓示が、後代になって人格的表象として語られるようになったのだとしても、多面性を持つ宇宙の最高原理には、如来の指導を行う人格的な面も存していたと見ることができる。

ダルマを人格視している場合[編集]

後代の仏教(アッサムやスリランカ)で、ダルマが人格神のように見なされるに至った源泉として、「理法(ダンマ)は、実に、理法を実践する人を護る。理法をよく実践するならば、幸せをもたらす」(テーラガーター 303)の句があるとされる。ここでは、理法(ダンマ)がほとんど人格視されているとされる。[5]

サンユッタ・ニカーヤⅡにおいて「わたしは、わたしが悟ったこの理法を尊び、敬い、たよって暮らしたらどうだろう」という経文は、ダルマがブッダよりも上位に位置する最高原理とみなされており、ゴータマの悟りは、本来ダルマに準拠するものであるとされている。[6]

--Tokinokawa会話) 2021年2月18日 (木) 09:20 (UTC) 本文に移行しました。--Tokinokawa会話2021年3月20日 (土) 12:06 (UTC)[返信]

脚注[編集]

  1. ^ 岩波仏教辞典第二版P901
  2. ^ 『ゴータマ・ブッダ 釈尊伝』法蔵館1958年 P116 中村元
  3. ^ 『仏弟子の告白 テーラガーター』岩波書店1982年 P252注303 中村元
  4. ^ 『ゴータマ・ブッダ 釈尊伝』法蔵館1958年 P113 中村元
  5. ^ 『仏弟子の告白 テーラガーター』岩波書店1982年 P252注303 中村元
  6. ^ この個所を「人格神」としてのダルマであるとする訳者もいる。『ブッダ 悪魔との対話 サンユッタ・ニカーヤⅡ』岩波書店1986年P339第Ⅵ編第1章第2節注8中村元