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ノート:河口商次

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北大数学科崩壊事件の記述について[編集]

これ、書かないわけにはいかないですかね。でも、それなりに出典は付けられますが、どうしても個人の意見というか独自研究という指摘は避けられないだろうし、そもそもあんまり書きたくない。

何方かもっと良い文案とかあればお願いします。事件とするか人柄とするか。

事件[編集]

1938年 テンソル学会の機関紙『テンソル』を出版するに際し、出版用の紙が高騰したための資金調達と、戦時下で研究に必要な欧米の数学書の輸入が途絶し入手困難となっている状況を打開する一石二鳥の策として洋書数学書の海賊版を会員に販売することについて、かつては自分の助手、当時助教授となっていた穂刈四三二に協力を要請するが、「帝大教授のやることではない」と猛反対をうけて対立。以後関係が悪化し、河口は穂刈をテンソル学会から除名する。

当時は講座制の時代で、本来ならば幾何学講座の内紛として自主的解決が望まれたが、その後の終戦後の米軍占領下での戦争協力者の公職追放の動きの中で、河口は卒業生から告発される。

さらに、穂刈との対立が続いていたことから占領政策に乗って公職追放の槍玉に挙げられ、河口の罷免を求める代数学講座の守屋美賀雄との対立により、幾何学以外の教授が全て道外の他大学に転出していなくなるという北海道大学数学科の崩壊事件を招いた。

この事件は後に上智大学学長となる敬虔なカトリックで高潔な人格者守屋と、数学の研究・分野の発展のためなら手段を択ばないアカハラ・権威主義的な河口という視点で語られることが多い。しかし、背景として東北大学出身で就任当初から北海道大学の数学科を応用数学重視の体制にすることを目標に種々な活動をしてきた河口と東京大学出身で数論の守屋では研究スタイルが異なり、とかく応用重視となりがちな戦時下では、テンソル創刊の辞の「秘密主義個人主義的な存在の研究態度を放棄し学閥を超越し、研究中の問題と雖も之を互に提示し合ひ討論に供してその進展を促」すべきだという主張は「秘密主義的個人主義的研究態度」を必須とする数論分野の研究者の側からは戦争協力、軍部同調に乗った圧迫に見えたのだとも考えられる。--G3Copier会話2023年6月20日 (火) 12:09 (UTC)[返信]