ノート:江戸湾

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失礼しました。履歴で「言葉を濁さない」とした箇所と、江戸湾にあたる呼称は存在しなかったとする下りは浄心の著書に「江戸浦」の用例が見えますし、出典のある記述でもないので削除したいとおもいます。—-小峯堂会話2021年3月30日 (火) 02:58 (UTC)[返信]

了解しました。「意外であるかもしれないが、それまで東京湾を指す語は日本の歴史上に見られない」という記述はウィキペディアの記事の表現として、あまり感心しないような気もしますし、出典も示されておりませんので、私としましても削除に賛成です。しかし、「言葉を濁さない」ということについては、簡単な話ではないでしょうか、「東京湾に該当する地名はないとされる」の「とされる」を削除すれば良いだけの話で、タグを貼り付ける必要はないと思います。--122.26.32.130 2021年3月30日 (火) 13:42 (UTC)[返信]

ご対処いただきありがとうございます。「言葉を濁さない」の箇所は、浄心の著書にそれらしい表現がみえるのに、逆接でつなげて「ない」とされているところが引っ掛かりです。注7の藤井にそのように記してあるのでしょうか。だとすれば注7を文末に移して頂いた方がいいと思います。藤井になく、別途地図を参照されたのであれば、注7のところで文を切って頂いた方がいいと思います。「見聞集」にあるのは、江戸開府で江戸が一大消費地になり、関西の漁師がやって来て東京湾の魚介を地曳き網で取り尽くしたという話で、地名の原型がその頃できた可能性はあると思います。--小峯堂会話2021年3月31日 (水) 17:15 (UTC)[返信]

老婆心ながら一言、2015年6月6日 (土) 22:35 の版をみると、記述があるのは、菊池利夫 『東京湾史』のようです。ですが、ここには客観的事実が書かれているだけですから、出典がどうのというほどの問題ではないでしょう。なお、浄心の著書は、公的機関の作成したものではなく、陸上の地名を表しているわけではないということで、明治時代(昭和も戦後?)まではいろいろの観点があって現在の地形図のような統一された見方があったわけではない、というのがこの記事の論点のようですから、そのまま素直に読めは良いだけで特に問題はないように思えます。--122.26.32.130 2021年4月1日 (木) 11:03 (UTC)[返信]
暇人なもので、またたまたま近くの図書館に菊池利夫の 『東京湾史』があったので調べてみたのですが、13・14ページに「近世になって江戸幕府は日本列島の国絵図を五回もつくった。慶長(一六〇五年)・正保(一六四四年)・元禄(一六九七年)・享保(一七一九年)・天保(一八三七年)に作成している。このうち正保国絵図・元禄国絵図・天保国絵図は、江戸時代の三大国絵図といわれているが、これらの国絵図にも江戸湾の名がない。また世界的に科学的価値が高いといわれる伊能忠敬の大日本沿海実測図(一八〇〇年ころ)にも、江戸湾の名が書かれていない。(途中省略)近世には東京湾の固有名詞はなかった。」とありました。元々は出典が付けられていたものが、途中に加筆されて、文章と出典が泣き別れになってしまったようです。そういうことで、折角調べてみたものですから出典を追加させていただきます。--122.26.32.130 2021年4月2日 (金) 07:21 (UTC)[返信]

編集お疲れさまです。なるほど、もともと『東京湾史』で書かれていた中に、藤井文献の記述が中途半端に入れられたので無理な接続になっていたようですね。藤井文献はGoogleで一部読めましたが、幕末の「江戸湾」の用例が見つかり、また広辞苑の「江戸湾」の出典は1690年の外国の文献とのことで、「近代以前には用例がなかった」というこの記事がベースにしている主張は棄却されているようです。全体にタグ付けしたのは別のユーザーさんですので、敢えてタグを復元しようとは思いませんが、私も全般に問題の多い記事だと思います。「誰々はこれこれこう主張した」という風に、論者が誰なのかをはっきりさせるようにした方がいいと思います。--小峯堂会話2021年4月3日 (土) 13:46 (UTC)[返信]

申し訳ないのですが、正直言って何を仰られているのか、私には判らないのです。
ご指摘が、「江戸幕府の国絵図には東京湾に該当する地名はない」に対することでしたので、途中省略としたのですが、『東京湾史』には、続けて「江戸湾という名は、欧米で出版された十八世紀にの地図に書き込まれていたものである。近世末に日本へ開港を要求するため欧米からきた船が測量した地図である。」とあります。またこの記事中には「ベネチアに残る1690年の日本図には、自国語で「江戸湾」の表記が見られる。」とあり、『広辞苑』はこのことを言っているのだと思います。
最初は「東京湾に該当する地名はないとされる」について、言葉を濁していることを問題とし、次には出典を問題にし、さらには広辞苑を引き合いに出すなど、問題を小出しにするのはいかがかなものかと思います。また、「近代以前には用例がなかった」というこの記事がベースにしている主張は棄却されている、というのも判りません。小峯堂さんに対して失礼かも知れませんが、論理のすり替えのように感じられてなりません。私としては前にもここに書きましたように、明治時代(昭和も戦後?)まではいろいろの観点があって現在の地形図のような統一された見方があったわけではない、というのがこの記事がベースだという印象を受けております(別に私がこの記事を書いたり、加筆したわけではありませんので、何とも言えないのですが)。
記事の冒頭部には、(何故か知りませんが)「近世(およそ江戸後期)の東京湾を指すとされる造語」とあり、江戸前期より前は範囲外のようです。小峯堂さんが鬼の首でも取ったように上げる江戸初期の浄心の著書は範囲外で、また『三大国絵図』に東京湾に該当する地名がないことからも、浄心の著書の影響がさほど広まったようにも思えません。蛇足としてこんなこともある、程度のことかと思います。
「2016年11月11日 (金) 15:37 の版」には、浄心の著書に関する記述もあることですし、私としてはこの版で何の問題も無かったと思っています。--122.26.32.130 2021年4月4日 (日) 12:11 (UTC)[返信]
追加させていただきます。
「誰々はこれこれこう主張した」という風に、論者が誰なのかをはっきりさせるようにした方がいいと思います、とのことですが、確かに菊池利夫『東京湾史』には、こういう事実がある、ということが書かれているだけで、他の出典の執筆者も同じでしょう。勿論ウィキペディアの編集者も自論を主張をしているようにも見受けられません。個々の編集者や執筆者がどう思ったか、どう主張しているかではなく、多分結果としてなのでしょうが事実が書かれているだけだと思います。こういったことが、多くの執筆者の書き込みを許容し世の中の一般常識にはとらわれない、ウィキペディアのウィキペディアたる所以ではないでしょうか。そういうことで私としましては、すばらしい記事だと思っています。--122.26.32.130 2021年4月4日 (日) 13:28 (UTC)[返信]

言葉足らずだったようで、失礼しました。藤井文献には嘉永の地図に「江戸湾」の用例がみえる、ということが書いてありました。菊池文献にも近世の外国の文献に「江戸湾」にあたる語があることへの指摘がある、というのは知りませんでしたが、それならばなおさらに、この記事にあるような、後世作られた言葉だ、という解釈は成り立たないように思います。タグ貼りについては、私ではない別の方は最初から全般に「言葉を濁さない」「出典の明記」「独自研究」を指摘されています。「言葉を濁す」というのはこの記事の最初の一文のように、誰が言ったか(どの文献に書いてあるのか)よくわからないような書き方のことでしょうから、出典を明記せよ、というのと意味合い的には似ていると思います。内容を改善せずにタグを消すのは、いかがなものかなと。他人が書いた記事だから修正する気はない、ということでしたら、タグを貼ったままにしておいても、差し支えないと思います。私はこれで失礼します。--小峯堂会話2021年4月4日 (日) 14:02 (UTC)[返信]