ノート:永弘院

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歴史[編集]

戦国時代の天文7年(1538)に、信州小笠原家の後裔である下方氏一族の下方貞清が義雲祖嚴和尚を開山とし、居城である上野城の北東にある藥師堂に祀られていた薬師如来を本尊として寺院を建立したことにより、永弘院の歴史が開かれました。

貞清は、戦乱の世が進み戦場を駆け巡る日々が多くなると、武運長久と一族の安穏を祈願するために信仰していた勝軍地蔵菩薩を祀るためのお堂を寄進し、お寺を心の拠り所としました。

しかしながら突如、本能寺の変により下方氏一族の存亡の危機が訪れることとなり、永弘院も檀越である下方氏の荒廃と命運を共にしていくこととなりました。

歴代住職の厳格な宗風により、上野村の禅寺として村々の人々に支えられ、少しずつ伽藍を整えていきましたが、幾度となく災厄に遭い、五世言峰如侃和尚の代、九世魏峰祖欽和尚の代、十四世孝山玄裕和尚の代に大規模な再建がされたことが、伝わっております。近年では、昭和20年5月14日の名古屋大空襲により、山門・鐘楼を残して悉く灰燼に帰し諸堂宇を焼失しましたが、人々の熱心な信仰に支えられ、本堂、納骨堂、庫裡、書院、玄関、隠寮、地蔵堂、茶室、塀等が逐次再建・新築され、今日に見る伽藍となりました。

末寺として法蔵寺・万福寺・桃善菴がありましたが、現在はありません。

--Hiroki Makino