ノート:永州 (浮世絵師)

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「永州」について[編集]

昭和6年刊行の『ラグーザお玉』(木村毅、千倉書房)には、ラグーザ玉が日本で絵を習っていた絵師について以下の記述があります。

絵は小学校よりも前から習つてゐた。師匠はエイシユウといふのだ。何分彼女(ラグーザ玉)が字を忘れてしまつているので、はつきりした断言はできないが、多分は永洲とでも書くのであらう。その姓も全く彼女の記憶にない。(以下略) — 29頁

しかし昭和14年刊行の『ラグーザ玉自叙伝』(木村毅編、改造社)の「絵師栄洲先生」の「註」には、

〔註〕エイシユウに、私(木村毅)は元、永洲の字を宛てた。此れは石井研堂氏が小林姓ではなかつたかと云はれたのによる。果して小林姓だとすれば、永濯、永興と同門で、永洲と書いたらうと云ふ事が類推せられる。併し、お玉夫人が渡欧後にパレルモで写した写真の裏に、清原栄寿と書いてあるのを発見した。それから同じく栄寿の落款のある子守の絵が残つてゐる。してみると、やつぱり栄洲であらう。(以下略) — 20頁

とあり、「永洲」ではなく「栄洲」とするのを是としています。すなわち月岡芳年翁之碑に芳年の門人として名のある「永州」と同一人だったのか、また小林永濯などと関わりがあったのかどうか、小林姓だったかも明らかではないことになります。よって記事名から「小林」を削除し永州 (浮世絵師)としました。なお昭和6年刊行の『浮世絵師伝』(井上和雄編)には、「永洲」の項に以下のようにあります。

伊太利シヽリー島パレルモに現住する画家ラグーザお玉老女史(清原氏)の娘時代に画を教へし人にして、小林永洲といひし由、最近木村毅氏の発表あり(昭和六年一月『東京日日新聞』夕刊連載)、或は永濯の永洲時代に於ける事か。

『原色浮世絵大百科事典』第2巻111頁の「えいしゅう」(永州)の項においても、これと同様の記述がみられますが、昭和14年刊行の『ラグーザ玉自叙伝』では「永洲」とするのは否定しているので、『浮世絵師伝』及び『原色浮世絵大百科事典』第2巻にある記述は拠るべきではないと考えます。--ものぐさたろう会話2019年12月2日 (月) 00:24 (UTC)[返信]