ノート:永地秀太

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有吉姓[編集]

太平洋画会資料文献には、『有吉秀太』として書かれている記述が存する。 有吉家は、山口県下松市(現 周南市)の下松駅に近い場所の代々造り酒屋であったそう。 跡取り長男ではなかったために画塾上京を許された。 太平洋画会参加の後、長州同郷で当時大内村の村長の娘であり、当時御茶ノ水女子師範学校を卒業し、淑徳女学校教員あった「永地マチエ」と婚姻し永地(ながとち)家婿養子となり、有吉秀太から永地秀太に。挿絵の花押にNagatochiと書かれているものも存する。 大内村の永地家では秀太の資金援助を行っていたが、留学や海外視察の渡航費用のために山を売って工面したという。

Icemint567会話2016年11月14日 (月) 03:44 (UTC)[返信]

有吉姓の由来を記述しました。永地姓の読み方「ながち」は誤り。永地と書いて「ながとち」と読むのは江戸時代から。たまにインターネット上に「永地永太」と文字の錯誤間違いが発見されることも。 Icemint567会話2016年11月14日 (月) 03:54 (UTC)[返信]

過去帳が山口市大内の光円寺に存する。 Icemint567会話2016年11月14日 (月) 04:00 (UTC)[返信]