ノート:水虎

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異解釈を削除しないでください[編集]

本草綱目のくだりの解釈に異説がある場合(本件では2021年カリフォルニア大学出版の英訳)、それを盛り込むのがウィキペディアにおけるWikipedia:中立的な観点の方針です。ももりさんがなされるような削除編集を重ねておこなうのは困ります。

また、コメントされていることはその恣意的な削除行為のなんら説明になっておりませんので、申し分があるならこのトーク等でしてください。たとえば仮にですが、アメリカ人の学者の解釈などいうまでもなく反映する必要はない、なんていうのは言い訳にはなりませんよ。--Kiyoweap会話) 2021年6月4日 (金) 12:27 (UTC) [訂正。Kiyoweap会話2021年6月4日 (金) 12:30 (UTC)][返信]

ご意見うけたまわりました。編集で書き込まれてらっしゃる「異解釈」や「異説」と称されているものは拝見しましたところ、『本草綱目』の英訳版を独自に翻訳解釈なさっているものですよね? 『本草綱目』からの解釈は基本的に膝頭の虎も、鼻を捉えれば使役可能という部分も『本草綱目』本文自体に存在する記載ではないのでしょうか? なぜ、漢文から英訳を経てさらにそれを日本語的に解釈なさった「本草綱目の本文」が一般的な海外での「解釈」となるのでしょうか。拝見している限り、『本草綱目』の「本文翻訳」を単に校比しているのみで、「水虎」そのものの一般的な意味合いをまず「概要」として掲載するという根本的な部分から外れているのではありませんか?
ご使用の英語文献にある「異解釈」とおっしゃられているような箇所は、そもそも各種の「水虎」考察に解釈として幅広く利用され、日本・中国圏で「古典解釈」として引用・支持されているのでしょうか? 一般的な校注書を飛ばして、あえて四庫全書本を正テキストとし、当該書のみをご使用なさって、そこのみ「異解釈」といたずらに持ち上げて断じているのは逆にどうしてなのですか。同書の記述は欧米圏での独特の「解釈」として見られるのでしょうか。そもそも翻訳内容として「異」ではない英文のようにお見受けします。(鳥山石燕の洋書についても同様です。同書は日本の研究書にある内容をそのまま・あるいはやや誤解したまま・さらに読めば現在は誤りとされている内容も翻訳して載せているに過ぎない内容です)
『通雅』での記述は『本草綱目啓蒙』などでも引かれていますが、水唐などはそもそも『通雅」などにおける「水虎」の誤写かという説が存在しています。また、同書で書かれているのは「鼻」ではありません「勢」です。
  • 和漢三才図会や鳥山石燕はあくまで「絵入り」掲載例として挙げて来ただけにすぎず、漢本和本の本草綱目各種のほか、同様内容の掲載例は多数あります。前2例を過剰に「通説」「読み下し解釈」の中心とする意味合いがわかりません。
  • 総称・異名利用と「同義」は全く別のもの。
コメントした通りでしかありません。「日本での水虎」はあくまで総称(漢語を重視していた近世日本でいうところの総称的な学名あつかい)であって、水虎と河童を「同義」とするのはむしろ混同した側の人間だけでしかありません。学者たちはそもそも使い分けています。『本草綱目』の概要内容については、編集でお用いになられていた「日本での従来解釈だが、別解釈では」という言は、各種の『本草綱目』を参考として編まれた諸書や校注書、和漢三才図会・鳥山石燕以外の従来の諸本要素とのバランスを全く含んでらっしゃらないとお見受けしますが。いかがなのでしょう。そもそも、英文は内容上それらをくつがえしてもおらず、併記するような記述なのでしょうか。

--ももり会話2021年6月4日 (金) 15:55 (UTC)[返信]

たとえ外国語だろうと、中国医学史を専門とする大学教授(権威があるWP:RS)の最新訳として、その異説・新解釈を盛り込むのはWP:NPOV方針上、しごく妥当です。
ももりさんの裁量の編集行為で一刀両断される筋合いはありません。
外国語資料を典拠にしたとたん「それはどこかしらにあなたの英語の解釈が入ってるから使えませんよ」と逐一ゴネられたら外国語の資料は一切使えなくなります。お話になりません。
私の英語の解釈が強引すぎるというのなら、その部分は「○○」くらいの意味じゃないでしょうか、と軌道修正をもちかけるのが筋です。筋を通してください。
また Unschuld と同調した解釈が、近年の中国や日本の学界にみられるかどうかは調べきってませんが、そのクライテリオンをクリアしないとWP:RSにもとづいた異説を挙げられないという責務はありませんよ。
仮にUnschuldの新解釈だとして、2021年の刊行本に対して日本や中国での評価論文が出そろった状態でなければまだ出典として使えない、なんてルールもありません。
"あえて四庫全書本を正テキスト"も言いがかり。"四庫全書本"は文字検索もコピペもできる電子テキストとしてウィキソースにアップされているので、利用者の便宜のために上げているのです。なおかつ、そのテキストは鈴木訳に合致し、Unschuldの対訳で掲載されるテキストに(リョウリの訂正以外)は合致するもので、別になんの不自然もないと思いますが。
「水唐」はそもそもあなたが出典なしに冒頭文に掲載したのではないでしょうか?そこに私が出典をつけた際に、"誤写であるという説"が抜けていると批判するのはお門違いというものです。それを補遺したくばすればいいし、また、誤写説まであるならばなおいっそう、冒頭文から外す正当性があると思います。
『通雅』の電子テキストに「鼻厭」とありますので[1]、あなたが「鼻」でないと仰っても説得力に欠けます。
和漢三才図会の引用は、そのものずばり「漢文の読み下し」⇒漢文訓読でしょう。何がいけないのですか?
あなたは2つの事柄を一緒くたにしてますが:
1)「膝頭(ひざがしら)」解釈の点ですが、これは和漢三才図やその多絵入りでない文献多数ある、そして近年の妖怪参考書の類でもこの解釈をとっている。ならば端的に「通説」という言葉を使ったまでです。すこし迂闊なことは認めます。もっと精密な言い回しがあるとは思いますが、わざわざ俎上に載せるほどの事柄でしょうか。
2)"「日本での水虎」はあくまで[カッパの]総称"と言う点は、和漢三才図会ははずれますよね。"良安自身は無理に「河童」を水虎にあてはめることはしなかったが、日本における「河童」を水虎にあてはめようとした本草学者なども多かったと思われる。"は小澤論文でオンライン確認できますよね。私はこの2次資料にもとづいてあなたの書き方を訂正したのです。WP:PSTS方針にのっとったまでです。
新英訳では"膝頭 (ひざがしら)"でなく"膝と頭"ですから、"英文は内容上それらをくつがえしてもおらず"などと、いったいどういう思考回路でそんなことを言えるのか理解に苦しみます。これをして"異解釈"と形容づけてなんのさしさわりもないと思いますが。
そして、あなたの考える"バランス"は異説の配分=ゼロなわけで、これまた「適当な重み付け WP:DUE」方針から外れています。--Kiyoweap会話2021年6月5日 (土) 12:28 (UTC)[返信]


異解釈について

  • 誤解なさっておられるようですが、指摘しているのは「海外文献である」「翻訳を通過している」という手順ではありません。あえて Paul Unschuld氏の文献を資料として挙げておられる内容についてです。
  • 「日本での従来解釈」(通説)に対しての「異解釈」であると主張なされている Paul Unschuld氏の英訳文についてですが、Water tigerの項目に研究内容に基づいた「水虎」への解説提示や注は無く(原典本文の「時珍」に「李」、「沔」に「川(水)」、「射」に「矢」と、非常に一般的な補訳があるのみ)、特別に先行研究の何々に拠って解釈を整えて訳した、あるいは何々にある(仏文・英文の『本草綱目』も勿論ふくめて)通説解釈と校異して「それらと異なるものとした」という表示は見られません。当該資料のみでは、単に訳文がそうなっているというだけであり、挙げておられる「箇所」についての「先行する一般解釈」に対しての「異解釈」として Paul Unschuld氏が提唱している内容であるとは少なくとも見えません。(Paul Unschuld氏がこのように翻訳する以前から存在していたのか、彼独自のものなのか、何を根拠としたのかがこの資料では明確ではない)
  • Paul Unschuld氏は、そもそも『本草綱目』というひとつの本を翻訳をなさっているのであって、「水虎」という存在全体の研究や解説を示しているわけでないことは明らかではあると思います。あくまで李時珍が引用した形態の「文章」を英語で読み下しているだけであり、『水経注』など他の文献でも引用されている諸書での「水虎」についても同書では論じてもいません。
  • 『本草綱目』本文や、『本草綱目』以外の「水虎」についての記載を持つ典籍との訓詁解釈の蓄積(栗本丹州によって書かれ近代博物学につながる学者たちにも写本流布していた『水虎説』などもそれらを用いています。)を Paul Unschuld氏が提示したうえで、それを根拠ある文献を用いてくつがえしているのならば、同等に掲載して有益な「異解釈」や「異説」であると言えますが、どうなのでしょう? 学界で支持された・まだされていない、新しい・古いなどの話題以前の、資料からの内容の採り方についてであると思いますが。
  • 該当資料の「異解釈」部分の根拠となる Paul Unschuld氏の学術的・歴史的変遷が明白でない以上、あえて Paul Unschuld氏が用いた研究成果的な「異解釈」であると捉えて活かすのならば、「概要」の歴史的な一般的な水虎解説に時代変遷的に同等な「新説」「異説」のように提示するのではなく、「日本での水虎」のように「欧米圏で翻訳された水虎」として、どのような根拠からその資料の筆者が提唱したのかを明確にしつつ近代以降すでに多数翻訳がある英文・独文・仏文での捉え方の差異の有無の変遷を明確におまとめ下さったほうがまとまりが良いのでは? と思います。翻訳を通じた東西での認識差異の内容としては非常に面白い内容ではあるので。ただ、現状の資料では、もしも Paul Unschuld氏 に根拠が無かった場合、ただの誤釈例を載せただけになってしまいますからね。

鼻について

  • ご提示の『通雅』の本文でも「鼻厭其陰也」など、「勢」を示すものであることは複数明確に示されていますが。

総称・同義について

  • 寺島良安は、項目を立てる上で「水虎・河童」(日・中で異名同物では無いという観点)を分離していることは事実ですが、『和漢三才図会』の全体的な本文では、河童のことを総称的に「水虎」(かわたろう)と書いていますし(巻80。平凡社版14巻 219-220p、肥前国の菅原大明神・渋江氏の項目など複数)、一般的な近世~近代の学者・医者・文人と同様に「河童」たちを「水虎」と総称表記していることと特に態度は異なりません。
  • ご提示の論旨部分のみ用いた場合、学者の中では寺島良安ひとりだけが異なっている(河童を水虎の総称下には置いていない)「ところが本草学者たちの多くは、日本の河童を水虎にあてはめてた」となさっているのかと存じますが、事実として不適当ではありませんか?
  • 日本において漢字表記の上で「河童を水虎にあてはめてた」(川に出る存在の総称として「水虎」を用いた)のはご展示の論旨どおり多数の事実であり、結果として混用や寺社への名称利用も起こったのではないですか。こちらでも単に小澤氏の論文を主題から離れた論旨に結びつけているのではありませんか?

--ももり会話2021年6月5日 (土) 17:08 (UTC)[返信]

繰り返しますが、その当該分野(中学の医学史)の教授である Unschuld がWP:RSである以上、それを典拠として記載した私の方にウィキペディアの規則上の正当性があります。
「水虎」という存在全体の研究や解説"をしていない→そんなのは十分な否定材料になりません。
江戸時代の教養人が『カッパの本』を出したら、その人は水虎について引かれた漢籍の絶対的な権威になるのでしょうか?違うでしょう?
中世中国語と近代中国語・日本語の意味ズレも認識できていると言いきれませんよね。
むしろ、より現代の、学籍のある専門家の意見(を掲載した大学出版の書籍)は尊重すべきというのがウィキペディアの趣旨です。
たしかに Unschuld が良安解釈系統に言及しておれば有益でしょうが、それは掲載上の必須条件じゃない。独自の要件ルールを課そうとするのはやめてほしい。
逆にあなたに突っ込みますが、あなたは良安と同様の解釈が複数の文献にリピートされていることをさも誇らしげにあげますが、単なる鵜呑みじゃないのですか?"写本流布"には、独立性の価値はまったくありません。
反して、小野蘭山が(良安が「小使(こづかい)」と読み下した部分を)古典に照らし合わせて別解釈をしたアイテムは独立性のみなぎる考証であります。記載の価値があるでしょう。なんとなれば、それは Unschuld の英訳のそれとも並立する内容でもあります。
ところがそれはあなたご自身が腑に落ちないからと言って裁量で削除していますよね。だからあなたは異説検閲のオンパレードなんですよ。
"誤釈例を載せただけ"とかおっしゃいますが、あなた個人がそういう危惧感をお持ちだろうと、他のユーザはそんなものは考慮する必要はないのです。あなたがすべきことは、誤訳であるという見解を示したWP:RSの典拠をみつけ次第において、はじめてその反論を反映させることです。
相当な理由でもなければ、あなたがその検閲をおこなう正義はないのですが、残念ながら、あなたが述べている多々の言い訳は正当理由にほど遠いといわざるを得ません。
"総称・同義"の区別についてのあなたのこだわりは、悪いけどスルーさせて頂きます。
どこまでが同種(まったく同義的に同じ)でどこまでが同類(総称がおなじ)なんて線引きなんて、解説者それぞれで異なりますし、同じ人間ですら、そのつどごちゃまぜに使用する可能性もままあります。本人でなきゃほんとのとこはわからない、よってファジーのまま書くのが妥当と思います。--Kiyoweap会話2021年6月6日 (日) 16:38 (UTC)[返信]

そうです。江戸時代の教養人の意見が、『本草綱目』などでの「中国の水虎」の解釈の権威になるなんてことは絶対にありません。まず必要なのは中国での過去の校異や、現代の活字本や研究者の記載ですよね。中国での『本草綱目』の活字本(印書館版)に収録された訓点には「虎掌爪」について「~虎。掌爪~」(膝頭は虎の如し、その掌爪で常に水を汲む)と少し異なっている本の例(北京・中国書店版、1988年、4巻)もありますし。中国語版の水虎の項目の翻訳でも「膝蓋」(膝頭)と解釈されていますね。

「写本流布」というのは栗本丹州の『水虎考』のことですよ? 良安と同様の解釈が複数の文献にリピートされていることをさも誇らしげにあげますが とのご指摘ですが、日本での水虎の普及や解釈の一義が「寺島良安に由来する」などとは誰も書いても言ってもおりませんよ。「寺島良安の影響で」どうなったという言及などはしていないと思うのですが? 小野蘭山は寺島良安の指摘を無視した部類に『本草綱目』のまま河童(水虎)を配置したままですし、高木春山や栗本丹州などは『和漢三才図会』以上に資料勘校と自身の意見を示していますし、いずれも資料上の眼目は、日本の河童の地方での異名や、捕獲の噂・絵図にあり、「中国の水虎そのもの」は描かれてもいません。

規則上の正当性があるのでしたら、水木しげるらによる資料内容を無視した江戸時代の文献上の水虎(「河童」や「メドチ」たちを漢語的にそう表記しただけに過ぎない随筆や水虎大明神信仰の上の「河童」の性質を、逆に「水虎」としており日本での独自性質という構成にしてしまっている)混用を、江戸時代の資料の現代における「誤解釈」としてではなく「正解釈」として挙げることになりますが。記事上はその区別なり振り分けなりはすべきですよね。(そういう点でのご提案が「欧米圏で翻訳された水虎」という章、現在事例調査中です)「水虎」という文字を用いているので「水虎」であると「同義」しているのは、近世文献ではなく、むしろこの水木しげるのような現代の資料でしょう。

近世の日本の学者たちが『本草綱目』(『和漢三才図会』も一角ではあるが、そのものではない)から「水虎」を「河童」たちの総称に用いたり、漢字表記のみに用いたことは、あなたの挙げておられた小澤春菜氏も「『書言字考節用集』では「水虎」(カハワツハ)」(27p・37p。『本草綱目』舶載以前の『下学集』で「河童」とある点からも、舶載以後に中国では「水虎」という名称があるということが知られたことによる使用であることが読み取れるかと)であったり、「しかしそれは、良安の水虎イメージを伴わず、「水虎」という漢字のみを「河童」イメージにあてはめたものだった」など、資料や先行研究を引いて述べている箇所でもありますかと思いますが? (「水虎」の図そのものが、高木春山や栗本丹州たち当時の日本の学者たちによって多量の「河童」の中に描かれていないのも、「水虎」は「同義」ではなく「総称利用」でしかなかった点のあらわれであるのではないでしょうか)ご使用になられている二次資料にも記述のある点をあなたのこだわりとしてスルーするというご発言はむしろ、ウィキペディア的には不用意なのではありませんか。

--ももり会話2021年6月7日 (月) 03:26 (UTC)[返信]

たしかに中国の学界でどう取られているかは肝心ですし、私はそこは調べきっていません。その点は譲ります。
しかし再三繰り返しますが、Unschuld 教授が中国医学史専門の学者である以上、そのWP:RS性はくつがえりません。
それに中国で刊行本であれば権威があるわけじゃありません。
商務印書館版とかおっしゃられても、編者不詳なんでしょ?じっさいに関わったのはせいぜい高校の教師くらいの人かもしれません。
ですからあなたの調べはツメが甘いのです。
私だって中国の事柄をネットで確認しようとして、該当する出版物が数点だけある、というようなシチュエーションは幾度か経験しています。しかしながら、その著者の素性が調べてもよくわからなかったり、中国のナントカ出版社から出ているとあってもそれが由緒あるアカデミック・プレスに値するものなのか確信のもてない場合は使用を見合わせてます。
で、中国の専門学者で「膝頭」解釈を取っている文献があるとして、それを追加記述して<中国の学界でもこの解釈を支持する学者はいる>との加筆をおこなってもそれは一向にかまいません。しかし中国の何人かの学者がYesとしたってアメリカの中国学者が間違っているということにはなりません。それはあなたの判断ではそうなのかもしれませんが、あなたの判断はウィキペディアに反映すべきことではありません。
"「寺島良安に由来する」などとは誰も書いてもいない"→これもまた、立証義務をあなたが私に押し付けかえしたにすぎません。しかし良安以降に発表された書物に同じように事を書いたなら、もし仮にその人が独自に「小使(こづかい)」と解釈したんだよ~と主張したとしても、世間はこれをとくに真に受ける理由がないのが一般通念です。
で、小野蘭山は異説として「小使」を「小通」と同義だという書物を引いて、さらに「小通」について「男児なら齢16歳、女子なら齢14歳」で至る状態という引用をしています。あきらかに「小使(こづかい)」ではありません。
このことを加筆した私とすれば当然ながら、小野蘭山は当然ながら良案解釈と異なる解釈を出しているとみているわけで、いまさらなんであなたに指摘されなきゃいけないのかわけわかりません。
ひいては、あなたはこの蘭山解釈を削除してますよね、その根拠がいまだ明白でありません。
蘭山が独自に日本でフィールドワークをおこないその収集結果の「カッパ」のことも併記していることは小澤論文に書かれていて承知しておりますが、そのことがなんだというのか、どうあなたの削除権利につながるのか、私には皆目理解できません。
蘭山は「小通」について婉曲的表現な引用で済ましてますが、ズバリ言えば"生殖機能が成熟すること"と定義されています百度[2]。よって"媚薬となしてよく内に使うべし"という引用とも整合性がある内容であるのに、あなたは理由を明確にせずにこれを削除している。
そして、そのような効果をもたらすのは「鼻厭はその陰」..「水虎の勢いなり」という[鼻か陰部かよくわからんが]水虎のパーツであると、普通に読めます。ところが削除者のあなたは「勢い」とあるじゃないですか、などという不服を一点張りに私によこしており、私にはわけわかりません。
これは Unschuld の訳出である"鼻を摘(と)って小使(小さな用途)にできる"というとも整合性がある解釈です。
そもそも『本草綱目』ちゅうのは博物誌というより薬草・動物・鉱物にわたる漢方の原料・用途を顕すのを趣旨とした書物だろうから、このような「薬」的な記述にフォーカスがおかれるのは自然なはずです。
同義と総称の区別ですが、『水虎考』は、題名こそ漢語の「水虎」を使っているが、内容は「カッパ」のことであるというのは、そこは私もそうだろうとは思います。
文献によっては「日本のカッパ」の事に徹しているか、「中国の水虎」に徹しているかもしれません。
だから何?それがどう、あなたの削除の正当性につながるのですか?
そういう風に文献を分類してプレゼンしたいという話なら別スレで立ててください。--Kiyoweap会話2021年6月7日 (月) 19:29 (UTC)[返信]
  • 商務印書館版は議論の資となると思って、中国での訓点の位置にも「不確か」な「異解釈」がある(「虎掌爪」としていない)という例証として提出しているのですが……?(Unschuld氏などはむしろ参考などにしているのでは?) ご自身の説側の意見のある資料を批判指摘して何をおっしゃりたいのでしょうか……。
  • 商務印書館版は原文(張紹棠による『本草綱目』重校本)を活字化しただけの訓点書ですので四庫全書版と同様『本草綱目』の一次資料ですし、初版後も中国書店出版の古典籍シリーズ中に全4巻で復刻されています。復刻では中医研究院医史文献研究所の3名も薬名索引など協力もするような活字本です。一般的に中国で古典籍の活字資料として用いられているような本(1988年には1996年時点では8刷となっています)を、「編者不詳なんでしょ?じっさいに関わったのはせいぜい高校の教師くらいの人かもしれません」と想像だけで片付けておられるのは何なのでしょうか。水虎の記事を良いものにするという議論上に、そんな無思慮な暴言までが必要なのですか? 無根拠に他の編集者が使用する資料を押し下げる視点をお持ちである事の表明などでしょうか?
  • 「水虎の勢いなり」とお訳しになっておりますが、『本草綱目』には存在していない「摘」という記載にみられる「勢」の語義は「いきおい」ではありません。当該記載は「鼻」ではなく「勢」であると再三申し上げているのですが、なぜ「わけがわからない」「鼻か陰部かよくわからんが」とおっしゃっているのですか? 資料をご参考になっておられないのですか? 「わからない」などと勝手な翻訳をなさらないできちんとした訳注・資料・辞書を用いてウィキペディアの海外文献使用の要件を満たして下さい。
  • 中国の漢方薬についての資料であるというご主張を急になさるのであれば、なぜ、歴史的にその「中国」で解釈・膾炙されつづけて来ている本文の校注などに対して資料を量的に重視なさっていないのですか? 
  • 「鼻厭」あるいは「勢」が媚薬のようなものとなる用途を、『本草綱目』以前の古典書に曖昧に示していることは確かです。ただし、それは『本草綱目』自体の読み下しの問題ではなく、『本草綱目』自身が引用している水虎についての古文が、明の時代においても過去のものであるゆえにです。
  • 『本草綱目』が「漢方の原料・用途を顕すのを趣旨とした書物だろう」という点は正しいご意見です。しかし、『本草綱目』で水虎は、鬼弾と共に、水に住む伝説上のものに近い存在・渓鬼虫(諸書にある水から砂などを発して人を害する存在の何かをも異名として含まれている)の「存在」を補強するための「付録」情報として古文の引用が挙げてられいるだけに過ぎず、薬効を改めて箇条書きにして示す「主治」も「発明」の欄は立てられていません(同時に説かれている、鬼弾に到っては引用古文に薬効や食味に属する記載すらありません。渓鬼虫と水虎・鬼弾に共通しているのは「川におり、人を害する」という特徴のみな点からも、)。 渓鬼虫の「付録」として挙げられている文には「媚薬」であるとも「鼻厭」や「陰」や「勢」についても伝統的に本文記述はありません。それについては、Unschuld氏も、その箇所について『本草綱目』の翻訳では「鼻」は「鼻」としか言っていませんし、「小使」が「媚薬」の用途であるとは明記していませんね。それはあなたがおっしゃる権威的な筆者も「(鼻は陰部である)」「(用途は媚薬である)」と補訳で断定することもが出来ない、本義を他の説に断定するには不確かな古典本文であると見るのが普通なのではないですか?
  • 「権威」というキーワードを常におっしゃられていますが、あなた個人のみの価値観で権威の重み付けを勝手に決めていませんか? ごく一般的に用いられている『本草綱目』研究や商務印書館版の内容を、調べもせずに「その著者の素性が調べてもよくわからなかったり、中国のナントカ出版社から出ているとあってもそれが由緒あるアカデミック・プレスに値するものなのか確信のもてない場合は使用を見合わせてます」とおっしゃられているのも不思議でしかありません。ウィキペディアの編集上の「適当な重み付け」に欠いていますし、議論の段階から資料に対する観点自体が、「中立的な観点」に反しているように思われます。

--ももり会話2021年6月8日 (火) 13:49 (UTC)[返信]

商務印書館版の件は「異解釈」があるということでしたか?→この書物は私に閲覧手段がないので内容は把握できてません、あなたの論旨を取り違えたとのご指摘ですので、陳謝します。
本スレッドの、Unschuld教授の解釈はWP:RSですので削除しないでくださいというのがテーマですので、もしももりさんがそのウィキ方針を得心いただいて記事上に反映していただけるなら幸いです。
学者と対立意見例として、「商務印書館版」だとか大衆本の例を出すなら問題ですが、対立するのでなければ加筆してさしつかえないと考えます。
"「中国」で解釈・[人口に]膾炙されつづけて来ている"とおっしゃる基準は方針からズレております。
見落とされているかもしれませんが、重み付け(WP:WEIGHT)方針にも

"適当な重み付け..には、信頼できる情報源における観点の普及度を考慮し、ウィキペディアの編集者や一般の人々の間での普及度は考慮に入れないように.."

と断り書きされています。
Unschuld教授は、私の"個人のみの価値観で権威"ではなく、そのような"信頼できる情報源"(WP:RS)を十分満たしたものの観点なのです。
"信頼できる情報源で発表され、論じられてさえいれば、その説を適切に記事に含めることができます"の方針とおりに私はしているのです。
まあ、私も日本語ペディアの中立性の重み付方針(WP:PSTS)文面を見返しますと、若干ニュアンスが英語版と違っており、あなたのような解釈に至ってもある程度仕方がないかとは思います。
「水虎の勢いなり」と書き損じたのは、「勢」という漢字一字を入力するときに何十あるかわからない「せい」と読める漢字から拾うのが面倒だから「いきおい」とカナ入力して、送り仮名の「い」を消し忘れただけのことです。
私がそのように誤って訓じようが、正しく音読みしようが、あなたが"「勢」であると再三申し上げてい"いようが、いずれにしろ、はっきりとした意味まではわかりかねます。
それとも「勢」なりとか「陰」なりという語釈を、現代の解剖学的だか精神学的だかそういう観点でブレなく明確に説明できるのですか?できないでしょ?
詳しいところまでは「わからん」のが正直なオピニオンだと思いますが。
"中国の漢方薬"ですが、私が言いたいのは、Unschuld教授の訳で「鼻を取って、何かの小さな役に立てることができる」としており、これは"中国の漢方薬"の材料の本であるからには、「薬用・使用」に解釈をするのが自然である、
対して「鼻をつまめば小使いにできる」(「使役」)という良安解釈の範疇にあるとするのは、あまりに不自然である、
ということです。
"薬用"に絶対間違いないと強弁までしたつもりはありません。
ですので別にむきになってこの箇所のメイン項目である「渓鬼虫」に薬的効能が記述されていないとかわざわざ説いていただかなくても結構です。
ですので私は記事上で"Unschuld"教授の解釈では「薬用」となっている、という明言をする意向ではありません。
ただ、、Unschuld教授の訳では[薬かは確定できないが]"使用"なので、これとたてつづけて蘭山にある「媚薬」(『通雅』引用)を並記しました。
それが情報操作的といえるかどうかなのですが、その点をなじるとしたとて、両者の見解を削除・検閲する正当理由になりません。
"不確かな古典本文である"とおっしゃいますが、異解釈がある『本草綱目』の『襄沔記』引用にしたってそうでしょう?
鈴木訳の"自由になる"というのが"小使(こづかい)"みたいな意味になるのか私には疑問ですし。
そして私による、このトーク上での補足説明は、別に記事に記載する意向ではありませんので、そこは突っ込みどころではありません。
『通雅』にしろ『本草綱目』と同じく、意味が完全に明瞭ではないまま引用の形で掲載するのが公正だと考えます。--Kiyoweap会話2021年6月9日 (水) 18:06 (UTC)[返信]
  • Unschuld氏という「人物」や翻訳の信用度が高いということと、Unschuld氏が翻訳書に書いた「水虎」における言及箇所の信頼度が異なることは、数日前に記載した通りです。
  • そもそも、Unschuld氏の翻訳本を参照しておられれば、該当箇所がUnschuld氏個人の「異解釈」などではないことはご存知かと思いますが。Unschuld氏は、決して無から原文を翻訳しているのではありません。彼が中国での校訂本(例示の一つとして出した商務印書館版をはじめとする研究者も用いている活字本の原典)の先行解釈のどれに拠って、どのような結果としてその訳文を書いたかがわからなければ、「異解釈」の資料(WP:RS)としての価値は完全には発揮できないのです。
  • "不確かな古典本文である"とおっしゃいますが、異解釈がある『本草綱目』の『襄沔記』引用にしたってそうでしょう? その『本草綱目』本文の『襄沔記』のことをその箇所では申し上げています。引用している『襄沔記』の古文(本草綱目にはそもそもそれしか本文がこの「引用」しかありません)解釈自体を『本草綱目』は行っていないという意味です。
  • 「使役」という一般熟語に改めたのは、「小使」(水虎そのものを労働させるようなイメージ)と『本草綱目』以前の校注に別路線で展開している鼻厭が何らかの方法(水虎から摘んだ体の一部を、服用するのか・身に佩びるのかについては一切ないので、「媚薬」であるとしたところで、どのように用いると媚薬となるのかについては、そもそも断片的存在する古典に文字そのものが無いので、根拠のある研究などはそもそも無く、ウィキペディアのような場では断定して書くことが出来ません)で使役することが出来るという双方の意味と出来るようにしたつもりです。前者の意味として強弁しようという意図は無いつもりです。
  • 意味が完全に明瞭ではないまま引用の形で掲載するのが公正 その通りです。原文だけを載せるだけでは辞書に過ぎませんし、その原文の「解釈」は、継承されている校注書の存在が明確でないものは意味がありません。
  • 結局のところは、「『本草綱目』の上での水虎」ではなく、それらがあつかっている「古代中国の水虎そのものの」についての信用に値する学術言及が難しいので断定や解釈をいたずらに並べるのは、まだ不確定である(もっと資料を総括的・学史的に並べて増やしていきたい)といった考えからの削除であるということは、ノート当初からの総合的な意見です。

--ももり会話2021年6月9日 (水) 23:55 (UTC)[返信]

"古代中国の○○そのものの"についての信用に値する学術言及がないと使えないなんて、ウィキペディアン規格外のあなたルールです。
"先行解釈のどれに拠って、どのような結果としてその訳文を書いた"のか、判らなければ使うな?
これもご自分ルールです。
ウィキペディアン規則を文言を挙げて説明しても、私の説明に納得するおつもりはなく、
ご自分の理想や理念にたったルールを正当理由としてゴリ押しされているとしか思えません。
時間の無駄で疲れてしまいます。
誠実をもって、そのなんだかご自分の条件を満たしてUnschuld 解釈らの復活をやりとげる意図があるならば、もうとやかくは言いません。
しかし、あなたはすでに私のWP:RSであるUnschuldを削除しております。
あなたがその復活を果たさず、私が、"あなたはご自分の作り上げた決まり事でしか"削除を正当化できてないということで復活させたとします。
あなたがそこでまた削除されれば、その時点であなたはWP:3RRに抵触します("24時間ごとに3回までならば差し戻しをしてもよいということでは決してありません"という但し書きもご参考)。
その時点で、あなたがウィキペディア規則上に沿った削除と誰もが納得できるような説明をできないならば、編集ブロックなどの措置もありえますよ。--Kiyoweap会話2021年6月12日 (土) 14:51 (UTC)[返信]
  • このようなことが ご自分ルール なのですか? あなたが用いておられた『国訳本草綱目』での鈴木真海氏の現代語翻訳も、中国の『本草綱目』の古典的な校注書などを土台にして用いている(校註を鈴木真海氏とは別に、本草学の研究で知られる白井光太郎氏が勤めていますし、水虎の頭註には昆虫学者の矢野宗幹の水虎についての漢・和の本草書の流れを踏まえた上での解説も引かれていますよね)という部分があるからこそのご使用なんではないのですか? あなたが現に『国訳本草綱目』を判断して用いたように、内容のある記事にしてウィキペディアの記事内容を有益なものとするには、普通の判断なのではありませんか?
  • Unschuld氏の資料の場合は、資料自体が学術的な翻訳書であるいっぽう、そこに校注として示されていないのですから、Unschuld氏の用いている資料を用いて改めて書きますと申し上げているまでです。(Unschuld氏の用いた『本草綱目』の校注本については現地に発注済みです)
  • このノートでの議論は、現時点での記載・削除ではなく、お互いにUnschuld氏(あるいは本草綱目のいずれかの校注本・訓からの?)異解釈についての資料補強、「誰によって?」の説であるかについてを語り合うのがまず第一なのではないですか?

--ももり会話2021年6月14日 (月) 02:23 (UTC)[返信]

  • Unschuld氏も編纂をしている『本草綱目』に登場する語句を解説した辞典(『Dictionary of the Ben Cao Gang Mu』)は『本草綱目』翻訳と並行して現在3巻が刊行中のようですが、1巻(2014年)・2巻(2016年)・3巻(2018年)はそれぞれ、病名・地名・人名と文献名といった分野の語句がそれぞれ解説されている辞典で、現時点では「水虎」のような本文の個々の項目を詳しく解説している「解釈」としての研究成果の巻は、まだ出ていないようでした。

--ももり会話2021年6月14日 (月) 13:07 (UTC)[返信]

結局、戻すと言っておいてなにもしてないので、私が Unschuld に拠る『本草綱目』英訳の解釈を差し戻しました。
この正当性は私にあります。
近年の学者の解釈を恣意的に検閲・削除する行為は明らかなるWP:NPOV規則違反以外の何物でもありませんので、以後、自重するように。--Kiyoweap会話2022年2月9日 (水) 02:33 (UTC)[返信]