ノート:武田高信

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。

「高信の死に関して」における「謎の多い死」に関して この項目で一次史料によるほぼ確実な史実とされている以下の項目ですが、それぞれ別人を指しております。 ①小早川隆景による高信の死亡情報(1573年5月) ➁塩冶高清による助命嘆願と小早川隆景への助命嘆願(1575年9月以前) ③吉川元春書状での死亡の記述(1576年5月)

①は「因州武田」とあることから、武田高信のことと思われます。 ➁は武田又五郎のことであり、同じ書状(小早川隆景が山田出雲守に宛てた書状)内で(武田)高信と分けて書かれていることから、高信の後継者と思われます。 ③は武田右衛門(豊信)であり、明白に武田高信とは別人となります。

高信の死没年についての議論があることは否定できませんし、謎も多いことは確かですが、この記述は明らかに間違いを含んだ内容であるため、訂正の必要があると思います。 [1] [2] --SDeerH会話2021年12月18日 (土) 05:52 (UTC)[返信]

  1. ^ 『新鳥取県史 資料編 古代中世2 古記録編』
  2. ^ 長谷川博史「戦国期大名毛利氏の地域支配に関する研究」広島大学 2002年