ノート:武田勝頼

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俗説について[編集]

記事中にある「重臣の中には先代の言葉を守らない勝頼の血気を憂える者もあり、8月、戦勝の祝宴の席で高坂昌信は、「この盃こそ御家滅びの盃」と洩らしたという。」という文ですが、信長が上杉謙信へ宛てた手紙に「勝頼は信玄の家法をよく守り表裏の駆け引きも上手く油断ならない」という意味の書状が現存していることから、あくまでも俗説の域を出ないと思われます。また勝頼を陣代とする説もそれを裏付ける一次資料は無かったと思いますので、やはり俗説だと思われます。俗説はなるべく記述しないか、傍証の形での記述が良いと思います。Nubolari 2006年9月17日 (日) 00:21 (UTC)[返信]

東国の諸大名の連合について[編集]

東国の諸大名の織田家との関係・実際の脅威を受ける度合い・緊張度が全く異なること、大名同士互いの追求する利益がぶつかってしまい(特に北条と佐竹他関東諸勢力)実現が非常に難しく現実的でないこと、直接武田家に関係することではないと思われる等の理由から記述の削除を提案します。Nubolari 2006年9月22日 (金) 19:52 (UTC)[返信]

外部リンク[編集]

外部リンクに貼られているHPの内容は、俗説的で余り相応しくないように思うのですが・・・Nubolari 2007年1月12日 (金) 07:33 (UTC)[返信]

「研究」の節[編集]

「研究」の節は力作ですが、典拠の提示がひとつも無く、私的な勝頼論が展開されてしまっている印象を受けます。「新府城と武田勝頼」に収録されている平山優さんの一文に拠れば、勝頼には凡将論、愚将論があり、戦前に山路愛山、徳富蘇峰らの再評価(『武田勝頼公と法泉寺』が見られ、戦後には上野晴朗氏がはじめて再評価を試みたとあります。現状の勝頼論が妥当であるかは兎も角、百科辞典として「評価」を書くのであればきちんと典拠に基づいた記述であるべきで、個人的な再評価論を展開するのではなく、再評価をしている論者を探して、その骨子をまとめるといった方向ではあるべきではないでしょうか。また、凡将論や愚将論もフォローすることも大事ですよね。--でここ 2007年4月20日 (金) 06:32 (UTC)[返信]

「再評価」という節に名前を変えておきました。独自研究色は全く払拭できてませんが一応ご報告まで。--Kangoshiyouichi 2008年3月2日 (日) 01:06 (UTC)[返信]

上記で指摘して独自研究テンプレを付与したから一年近く経過いたしますが、節の存在自体に疑問を感じます。あれから一通りの武田氏研究文献を見渡しましたが、現内容の評価論のベースになるような研究は武田氏研究の範疇においては存在しないように思います、山梨県立図書館および甲府市立図書館郷土資料室を利用して調査して、です。武田氏研究成果をベースにした作家さんの歴史評論分野ではあるのかもしれませんけど、現在に至るまで典拠文献は示されていません。わたしはいちどゼロに戻して、慎重に明治から戦後武田氏研究の範疇での再評価論を端的に記述しておくのが妥当であると考えますけど、現内容を削除または再編成することには、武田氏に思い入れのある方からの猛烈な反発があるだろうなと、武田信玄などの編集に携わっていると痛感します。--でここ 2008年3月2日 (日) 21:24 (UTC)[返信]

勝頼の官位[編集]

勝頼は上杉景勝宛の書状に「大膳大夫」と署名をしています。大日本古文書家分け文書の上杉家文書(2)に収録されています。他の戦国武将の項を見ても官途の欄には自称官途も書かれているようです。公認であるか自称であるかは分かりませんが勝頼自身は武田大膳大夫勝頼を名乗っていたことは確かだろうと思うのですが。--Agira 2008年10月25日 (土) 04:25 (UTC)[返信]

取りあえず、脚注で出典情報として書誌情報を載せておけば良いのでは無いでしょうか。正確なことは、調べが済んでから補筆すれば良いでしょうし。--でここ 2008年10月25日 (土) 07:19 (UTC)[返信]

『甲陽軍鑑』や跡部勝資のこと[編集]

近年、丸島和洋氏の取次論をめぐる研究において『甲陽軍鑑』の信頼性について再考を示唆するような指摘がなされております。

氏はただちに甲陽軍鑑の記述は信頼できるとするような指摘をしているわけではなく、実証的な武田氏関係文書における取次・朱印状奉者の検討から、大名領国の拡大した信玄・勝頼期には譜代家臣が城代として領国各地に赴任した結果、信玄や勝頼側近には跡部勝資や原昌胤、土屋昌続のような新興側近層が出現し、彼らが朱印状奉者として数多くの取次を務めることで人脈を蓄積し、勝頼の頃には出頭人として台頭していたのではないか、とする所論です。

氏は論文の結論部分で、『甲陽軍鑑』における宿老と新興側近の対立はこうした歴史的背景を反映しているのではないかと示唆しておりますし、これ以上は私見になりますが、これは甲陽軍鑑の信頼性の再検討を示唆する指摘であると思います。--でここ 2011年1月27日 (木) 09:40 (UTC)[返信]

「景虎を見殺し同然」について[編集]

御館の乱における状況についてですが、「景虎を見殺し同然」というのは妥当な表現なのでしょうか?私の理解では勝頼は北条の要請によって景虎支援のために出兵したところ、景勝方からの和睦要請があったため、これに応じて景虎・景勝の和睦をまとめる。ここで駿河へ徳川家康が侵攻してきたため急遽帰国したところ、越後では乱が再発し景虎方が滅亡、という流れであったと思います。勝頼は越後にいなかったわけで、「見殺し」と言えるのかどうか、疑問が残ります。御館の乱関係の文献を今はチェックしていないのですが、「見殺し同然」とは、典拠文献にある表現なのでしょうか?--でここ会話2014年5月3日 (土) 02:45 (UTC)[返信]

勝頼の生誕地について[編集]

勝頼の出生地は信濃か甲府かと考えられると思いますが、平山優氏の『長篠合戦と武田勝頼』では最新の情報に基づいた勝頼の略歴が記されておりますが、出生地に関する考察はなし。次に柴辻俊六氏の『武田勝頼』を見ると、「出生地ははっきりしない」と記されております。--でここ会話2014年10月26日 (日) 06:06 (UTC)[返信]

武田家滅亡の原因[編集]

武田家滅亡の原因を記述しようと思いますがいかがですか? 今人よ会話2020年9月26日 (土) 05:56 (UTC)[返信]